故郷の想い出 木嶋イシ子 古希を過ぎた今、私の子どもの頃の暮らしを思い出して書いてみました。 私が子どもの頃(昭和20年代)は、生めよ増やせよの時代でどこの家にも子どもが大勢いました。そして、子どもが親の仕事を手伝うことは当たり前の事でした。 待ちに待った春がやってくると、私は、母に頼まれて友人と春一番の山菜であるノノバ(ツリガネニンジン)やフキノトウ、トリアシ(トリアシショウマ)やヨモギなどを採りに山に出かけたものでした。 残雪の中で開くブナの若葉、色とりどりの深緑の美しさは今でも夢に見るほどです。それは今も私たちの故郷石黒の自慢の風景です。採ってきたヨモギの新芽はヨモギ団子や草餅となって食料難の戦中戦後(太平洋戦争)の私たちの空腹を満たしてくれたのでした。 大人達の春一番の仕事は、春木仕事で一年中囲炉裏や風呂釜で焚く薪つくりでした。それが終わると苗代作りです。私の父が農業高校を出ていたことから近所の人が苗作りの相談に来たことを憶えています。 父は、田植えは子どもに手伝わせることは決してしませんでした。それは子どもはどうしても深植えをしてしまうので秋の収穫に影響するという理由からでした。私たちは苗運びや苗を渡す仕事をしました。 田植えが終わると、母が棒で畔に穴を開けるあとから大豆を2個ずつ入れていく畔豆植えの仕事をしました。その後は、畑の草とり、畔草とりなどが主な仕事でした。 夏休みになると男女を問わず川で魚捕りに夢中になりました。家の大切なザルを持ち出して石の下にいるババッカチ(カジカ)とりをして叱られたことを忘れません。 また、夏休み中に数回、神社での共同学習がありましたが、終わった後のみんなで遊ぶことが何よりの楽しみでした。 お盆のお墓参りの一週間前には、親と一緒に墓掃除に行って草を取りをしました。その折りに、親戚の墓を教えてもらいました。お盆には親戚のお墓も参るのが慣わしだったのです。時には墓の近くに巣をつくっていた蜂退治をしたことを憶えています。 秋になると刈り取った稲をハサ場(稲架け場)まで背負って運ぶのが子どもの仕事でした。元学校の下にあったハサ場に稲架けをしているときに、日が暮れて月明かりで稲を架けていたところ、近くにあった校長住宅におられた霜田校長先生が裸電球を外に出してくださったこともありました。そのときに手伝っている私たち兄弟を賞めてくださった時のうれしさは今も忘れられません。稲刈りがおわって、刈り上げのお祝いのあんころ餅を校長先生宅に届けて大変喜ばれたことも懐かしく思い出します。 稲刈りの仕事の外に秋の大切な仕事に春にニオに積んでおいた薪の取り込みがありました。私達子どももマキを2束ずつ背負って茅葺き屋の大天井(屋根裏)まで運びました。70歳になった今も足腰が丈夫なのは、子ども時代の背負い仕事によって鍛えられたせいかもしれません。 そして、収穫作業が終わると親戚や分家など、総勢50人ほど招くトウドヨビをしました。トウドヨビは夜と翌朝に招くのが慣例でした。ごちそうは秋野菜で作ったいろいろなおかずで、黒塗りのお膳に並べました。何と、ご飯は一斗(18リットル)釜と呼ぶすごく大きな釜で炊きました。冬の長い夜、ゆっくりと飲んだり食べたりしたあとに残ったごちそうはツットコ(ツトッコとも呼んだ藁トレイ)に入れて家に持ち帰ってもらうのでした。翌朝はお団子のぜんざいでもてなしたものです。大勢のお客さんを招く準備をする母や嫁さんはさぞかし大変であったろうと今にして思います。 その頃は月遅れの正月でしたので2月1日が元旦でした。前日の夜の年取りには、兄が東京で働いておりましたので陰膳をつくって据えて無事を祈りました。 年取りには女も子どもも御神酒を杯に少し注いでもらって飲んだものでした。当時は、お年玉など聞いたこともない時代でしたが、子どもがお金を使うこともなかったのでしょう。
この行事は我が家では簡略なものになりましたが今でも続いているようです。 当時の親が私たち子どもに口癖のように言い聞かせたことは人様に迷惑をかけないこと・ご先祖様を大切にすることでした。 故郷石黒も過疎化により年々家も人も減っていくばかりのようでありますが、なんとか私たちのかけがえのない故郷としていつまでも残って欲しいと願っております。 (旧姓田辺・上越市在住) |