子どもの頃の思い出 小林フジノ 私は昭和5年生まれですので、小学校に入学したのは昭和13年ごろでしょうか。今、思い出すとずっと遠い昔の事のように思われますし、ついこの間のようにも思われます。 私は、門出寄合に生まれましたので、学校は石黒小学校ではなく、門出小学校に通いました。
現在、二十三夜塔のある一本松のあたりから、急こう配の峠道を上って頂上から長い道のりを歩いて現在の門出集落の入り口に下りたのでした。 門出小学校は現在の小学校(2012に岡野町小学校に統合)と同じ場所でしたので村の入り口から10分あまりで着きました。 私たちの村は28軒でしたが、子どもは4年生から高等科2年生まで20人余りいたように憶えています。その他、分校に通う1〜3年生までの子どもがいましたから30人余りの子どもがいたのではないかと思います。 当時の門出小学校は小中学校で子どもの数は300人ほどいたと思います。先生は9人でした。 冬期には小学生は冬季分校に通い、高等科の生徒は、門出校の寄宿舎に入りました。とはいっても土曜日には帰宅し月曜日の朝は、雪の釜坂峠を越えて登校しました。 そのころは毎年大雪で、冬の通学はほんとうに大変でした。村の大人が交代で道ふみをして送り迎えをしてくださいました。それでも夜中に1mも降雪があったときや吹雪の時には、始業時刻に1時間以上遅れてしまいました。
そのころは、未だモンペが普及しない頃で「ノノコ」と呼んだ綿入れの着物を着て藁ぼうしに藁深靴で深い雪の中を歩くのですからひらひらする裾に雪が堅い球になってついて、裾が凍って厚紙のように堅くなることもありました。 その後、モンペが普及してからは着物の裾をモンペの中に入れることができ暖かくてとても便利だと思ったものでした。 また、春になると、釜坂の通学路の周りには山桜やコブシ(タムシバ)が咲き、秋には山栗やガマズミなど、特に釜坂はナツブドウ(ナツハゼ)やハコズミ(カクミノスノキ)などがたくさんありました。下校時に花を取ったり実を採って食べたりしたことは楽しい思い出です。 また、峠の頂上付近を歩いていると、時々、遠く上越方面から「ポー」という音が聴こえたことも憶えています。それが汽車の汽笛であることを私たちに教えてくれたのは高等科の生徒でした。 私の母は私が幼児の頃に亡くなったので私は母の顔を知らず、父親が私たち3人の子どもを祖母と二人で育ててくれました。生活も貧しかったので夏の通学時も短靴などは買ってもらえず、藁草履を履いて行って門出村の子どもたちに笑われて学校の玄関先で泣いたこともありました。 学校での遊びは女の子は、冬はナンゴ(お手玉)、テンマリつき、夏は校庭で鬼ごっこやかくれんぼなどでした。
昔は小学校高学年にもなると家の手伝いも割り当てられ、学校から帰ると田や畔草とりや畑の草とりが待っていました。私の家の作場は中之坪村に近い所に6反歩ほどの田がありましたので下道(ほぼ現在の道)ができると途中にあった作場の小屋に下校時に寄り、父が用意しておいた作業着に着かえて手伝いをさせられたものでした。 父は厳しかったですが、手伝いを一生懸命にした時には、村にあった「イワカミ」という店から飴玉など買って褒美にくれたものでした。 連れ合いを早く亡くしてから再婚もせずに私たち兄弟を育て上げてくれた父の苦労が、この齢になって私も身に染みて分かるようになりました。 (寄合在住・2012.10.12 聞き取り) |