小学校時代の校医さんの思い出
                            田辺雄司
 私たちが小学校の頃(昭和のはじめ)の校医さんは松代村(現在の松代町)の人で高橋という年配の方でした。
 高橋さんはいつも着物の尻をはしょって、杖をついて大きな茶色の犬を連れてやって来るのでした。私たちが登校する途中で追いつくと、
 「野郎ども(昔の子どもへの親しみを込めた呼び方)ねら、どごの村の子どもだ」
 などと聞くのでした。
居谷集落全景
 
私たちは「居谷です」「落合です」など答え、校医さんといっしょに歩いたものでした。当時、道の両側に草が繁茂して歩きにくい事もありましたがそんな時は
 「野郎ども、家に帰ったら、父っつあ(父親)に、道の草を刈れと言え」
 と言って鼻歌を唄いながら歩いておられました。当時の道は坂道で雨の後は泥んこ道となるので高齢の校医さんには大変だったと思います。
 上り道なると校医さんは「野郎ども、この杖を引っ張ってくれ」と言って杖を差し出して私たちがひっぱる杖につかまってヨイショヨイショとかけ声をかけながら上るのでした。後ろから校医さんの腰を押してやる子どももいました。そんな時には、決まって
「野郎ども、ネラ(君たち)は誰のおかげでマンマを喰って学校へ通われると思うか。みんな父ッツア、母ッカアのお陰だぞ。それを忘れるな。」
 と言った後は必ず「ほんに、ネラはみんな、いい子だなえ」と褒めてくれるのでした。なぜか、70年たった今も「いい子」と言われたこの時の校医さんの言葉が頭の隅に残っています。
 学校で診察や注射が終わると帰りも校医さんといっしょに帰りました。
 落合や居谷の村が近くなると、「どこの家でもいいから、お茶をもらって飲んでいくぞ」と校医さんが言うのでした。初めは、「おら家のしょは山へ行った」と言うと「ババは居るだろうが」と言われ交替に家に案内したものてした。
 家に連れて行き「医者がお茶飲みてぇと」と言うと、ばあさんは驚きあわてて、板の間にござを敷き座布団を敷いて、お茶うけに、私たちの口には入らない白砂糖を梅干しにかけて出すのでした。校医さんは梅干しを食べながらお茶を何杯もうまそうに飲みました。
 そして、帰りしなに「どうだ、ばばあ、診てやろうかなあ」と言うと、ばあさんは「えええ、診てもらえばお金がかかるから・・・」と断ると校医さんは「銭など要らん」といって、目、喉、脈拍を診て、胸や背中を指でトントン叩いたりしてから「ばあさん、達者だ。どこもわるくねえ。」と言って、またお茶を一杯ついでもらって飲むのでした。
 私たちは、そこの家の縁側に腰を下ろしてその様子を見ていると、「野郎ども、わるいが俺を莇平(あざみひら)のつんね(頂上)まで引っ張っていってくれや」と言って、松代村の境の峠まで私たちが引っ張る杖につかまって坂道を上るのでした。上る途中では、いつも僕たちに昔話を語ってくれたことを憶えています。
 頂上に着くと、ここまで来れば後は下り坂だと言いながら、着物のたもとから3銭か5銭を出して「あめ玉でも食え」と駄賃にくれました。
 そして、「また、雪が降る前に健診にくるからなあ」と言って犬を連れて帰っていきました。
 僕たちは、すぐに店に行ってあめ玉を買って食べながらにぎやかに家に帰るのでした。
 その後、数年して、高橋校医さんは高齢のため石黒校の校医をやめられたとのことでした。