住
家の間取りと周囲
石黒地区は、すべて馬屋中門づくり〔L字形〕の茅葺の家であった。補記-石黒と鵜川の民家について
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昔の茅葺屋 下寄合〔昭和30年代〕 |
家の間取りは、座敷、オオベヤ(寝室)デエ(仏間・客間)ミンジョ(流し場・台所)シモベヤ・ ニワ(土間・板張りの作業所)馬屋、トマグチ(玄関)センチ(便所 ※旧家といわれる家にはカミベンジョ(上便所)と呼ばれる便所が上座敷近くにあり主に菩提寺の僧侶など特別なお客が使用した参照→民家)などに分かれているのが一般的であった。
資料→昭和16年頃の我が家の間取りと利用の様子
資料→昔の寝間
補記→デイ
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石黒の茅葺き屋の一般的な間取り |
また、寄合集落では、「紙漉場」と呼ばれる間口6尺奥行き9尺ほどの場所がある家もあった。当時は自家製の和紙を作ることは特別なことではなかった。
現在でも、和紙の材料となるコウゾ畑があった場所がそのまま地名となって伝えられる土地もある。
しかし、昭和の時代には、すでに紙をすく家はなく、和紙は隣村の門出村より買っていた。
参照→HP門出和紙
参照→石黒の動植物 コウゾ
また、茅葺き屋の縁の下は比較的高く、風通しも良かったので食物や不要な日用品の保管場所に使われた。(→補記 縁の下)
比較的新しい家にはコバ葺きの玄関があった。玄関の二階は若手の寝室として使われることが多かった。
また、たいていの家は、家の後ろに池(タネ)があり、そこで鍬などの農具などを洗った。
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タネ |
また、ガンギ〔下写真〕の前にはメエメェ(平らな場所)があり、そこで稲モミやカンピョウ、ゼンマイなどをムシロの上に広げて干した。子どもにとっては格好の遊び場でもあった。
補記→たね〔家の脇の池〕
写真−ガンギ
庭先に植木のある家もあったが、石黒は豪雪地のためか、庭を築く家はほとんどなく庭木も少なかった。
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ガンギとメェメ(外庭〕とツボトコ(花壇) S.1965 |
メイメェの続きにはツボドコ(花壇)があり仏様用の花が植えられていた。これをツボグサと呼んだ。ツボグサにはダリヤ、チョウセンギク、ヒョッコジマ、ボンザクラ、ヒャクニチソウ、キキョウ、ムラサキシオンなどが植えられている家が多かった。
参考資料→ツボドコに植えられていた主な草花
また、家の近くにはセンゼェ(野菜畑)があった。ここでは、毎日の食材となる野菜が栽培されていた。キュウリ、トマト、ナス、菜っぱ類、キビ(トウモロコシ)などは、どこの家でもセンゼェに作られていた。
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茅ぶき屋の漆塗りのサシ及び柱と帯戸 |
家の周りに植えられている果樹には、柿、栗、スモモ、ナシなどがあった。もっとも多く植えられていた果樹は柿の木であろう。いずれも豪雪地帯のために枝下が高く大木仕立てであった。また、桐の木は、女の子が生まれた年に植えると嫁ぐ時にはタンス材となる、火に強く類焼を防ぐなどと言い伝えられよく植えられた
図・昔の家の間取りと屋敷←クリック
参照 板畑の親家(本家)の間取り
土蔵
土蔵のある家も集落には何軒かあった。土蔵は直接壁に壁板を張る造りと、側面の土壁との間を1尺ほどあけて鞘状に覆うサヤ蔵づくりがあった。
〔※子どもの頃に蔵のサヤの中に入ってよく遊んだ。壁板に空いた小さな穴から光線が入り、針穴写真機の原理で白壁に外の景色が逆さまに映ることを不思議に思ったことを憶えている〕
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さや蔵(寄合) |
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瓦葺(落合) |
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屋根の構造(下寄合) |
土蔵の普請では、肝心な工事は左官の仕事で、先ず柱の間に縦横に細丸太や竹やヨシを組み合わせて木舞〔こまい〕をかき、これをワラ縄で止める。そしてそこに泥土を塗り込んで更にその上に15pほどの土壁を塗り重ねて最後に白壁を塗って仕上げる。
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土蔵二階 |
村の古老から、むかし土蔵普請に手伝いに行って壁土練りの作業をした時の様子を聞いた。
それによると、まず、敷地の近くに小さな池のような凹んだ平らな場所を造り、その中に新土〔あらつち〕を粗いフルイにかけて入れ、3pほどの長さに切ったワラを混ぜて足で踏んでこねたものだという。足は裸足で踏み、足にあたる硬い岩などは小さなものでも残らず取り除いたという。
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木舞がきと土壁の様子 |
そして、かなり硬く練り上げてお椀に一杯ほどの土を足場に上って壁塗りをしている左官の手に投げ渡す。それを受け取った左官は木舞にたたきつけるようにして押し込んで塗ったり、小さな木槌のようなもので叩いて押し込む左官もいたという。
こうして木舞全体に塗り込むと更にその上に何回かに分けて上塗りをしていく。その時には壁の表面は平らに塗らず次の作業がし易いように出来るだけ凹凸をつけたものだという。こうして塗り重ねて15〜18pもの厚さの土壁で覆ったという。
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土蔵の中の造り |
それから屋根との間は火が回りやすいので鉢巻きと呼ぶ段差や斜めに出っ張りをつけたりして壁を塗った。言うまでもなくこのような場所は特に手間が掛かった。〔参考写真−クリック〕
また、土蔵の基礎は周囲全体に直方体や立方
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土蔵の入口の戸〔三重の戸〕 |
体に切り出した石をすき間なく二重に敷き詰めてあり、本屋の茅葺き屋では土台石は原石そのものを使ったが、土蔵には切石が使われたため基礎造りにも手間が掛かったものであった。
入り口の戸は三重で外側の戸は塗り壁の戸であった。→参考写真
中には、凝った造りの鞘(さや)の土蔵もあった。→写真
しかし、現在では利用価値もそれほどない上に、中越地震と中越沖地震により半壊に近い被害を受けた土蔵が多く解体される土蔵が多い。
ビデオ資料→土蔵の解体
ザシキとイロリ
ザシキは、現在の居間にあたるが、当時は、「座敷」の語源(板張りで敷物を敷いて座わる所)どおり、板の間で、必要に応じてムシロやゴザを敷いた。
たいていの家は、ムシロ敷きで、畳を敷いても「ヤロウ床」や「くさ畳」と呼ぶチガヤ表のヘリ布のない畳であった。
資料→チガヤの畳表
資料→畳の思い出−民具補説
ムシロは年の暮れに新しいものに取り替えたが新品は毛羽立って堅く感触が意外によくなかった。
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箱膳などを入れるホロ〔戸棚〕 |
古いムシロは、大切に保存しておいてすり切れるまで使った。 座敷には、イロリやコタツがあり、イロリは居間の台所寄りの位置にあった。
また、座敷には、引き戸の付いた作りつけの戸棚(写真)があり、これを「ホロ」と呼んだ。(上写真)
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じゅうのう |
イロリには自在かぎが下がっていて、鉄びんや鍋をかけて煮炊きをした。
イロリの中には、
火箸、五徳、灰ならし、餅を焼くワタシやクイゾツツキなどの他に火吹き竹もあった。
イロリの周りには十能や消し壺が置いてあった。 イロリの近くには「タキモンゴヤ」〔写真〕と呼ぶ半坪ほどの場所があり、薪やボイ、焚きつけ用の杉っ葉などを常時そこに置いた。
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たきものごや |
タキモンゴヤは、イロリに面した取り出し口の他にニワに面した焚き物取り入れ口があるのが一般的な造りであった。
また、朝起きてイロリの火を焚きつけるときには、前夜にヒヤスメ(囲炉裏の残り火に灰をかけておくこと)をしておいた種火から「ツケギ」に火を移し杉の葉に着火した。
ツケギ(写真)は、
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ツケ木 |
木を紙状に薄くはぎ取った先にイオウが塗ってあって、種火につけると着火した。着火時にイオウ独特の臭いが鼻をついた。
補記−ツケ木
しかし、終戦後まもなくマッチの普及によってツケギはだんだん使われなくなった。
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トボシ〔カラムシの茎〕 |
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当時のマッチ |
トボシ(写真)と呼ぶ、皮を取り去ったカラムシの茎を乾かしたものもイロリからカマドに火を移すときなどに使った。使い方は先端を指で押しつぶして割って囲炉裏の火に近づけるとすぐに火が燃え移った。(語源は「灯し」か)
イロリは一家団欒の場でもあったが、ヨコザとムコウザとタナモトとシモザと席次が決まっていて、ヨコザは家長の席であり僧侶など特別な客以外は誰も座
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火吹き竹 |
ることはなかった。
「ヨコザに座るのは、坊主と猫とバカ」と言われた所以である。ムコウザは客座とも呼び、来客があるとそこに縁のついたゴザを敷いて迎えた。
イロリの火は、夏でも煮炊きのために焚き、冬には暖房の役目も兼ねた。
また。また、イロリには、チャガマ(写真下)と呼ぶ大型の鉄瓶が常時置かれ、イロリの熱を効率よく使うようにしていた。
このチャガマのお湯は、洗い湯に使ったり、時には、ぬるい風呂に入れるなど色々な使い道が多かった。
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チャガマ |
クイゾ(写真下)は、大木の股木の部分などで割ることができない丸太で、大きいものは直径四十pもあった。クイゾは「クイゾツッツキ」という金具でオキになった部分をつつき落としながら燃した。一日で燃え切らないときは、寝るときに水をかけて火を消しておいた。完全に消さないと夜中に赤々と火がおこることもあった。
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クイゾ〔丸太のままの薪〕 |
当時の家屋は、天井が高いためと隙間が多かったため、暖房の効率ははなはだ悪かった。
また、その日の天候によって煙が天井裏のハッポ(煙出し口)に向かわず、室内に充満し、目も開けられていられないこともあった。
囲炉裏の位置
写真 元大野屋号紋三郎
しかし、この煙が茅葺きの天井の隅々まで行き渡り、針金や釘を使わず、ワラ縄で結わえる工法で造られた屋根を湿気から守っていた。実際、何十年も煙の染みこんだ縄はワイヤーにも劣らないと思われる堅さと強度があった。
その反面、イロリから出る煤や煙によって、家中が煤けて黒ずんだ。湿気の多い時節には、天井張りから煤が固まりとなって、音を立てて床に落ちた。
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茅ぶき屋の天井 |
また、イロリの回りは、火の粉が飛んでムシロに焼けこげができた。ロブチで居眠りをしている猫にも火の粉が飛びつき毛を焦がすこともあった。特に杉の木は、節の部分がはねる(爆ぜる)ので注意しなければならなかった。
また、かやぶき屋根もイロリの熱によって雪の凍結から守られ自然落下した。屋根に雪が凍結するとなかなか落ちず、凍りついたまま落下すると葺きカヤを引き抜いてしまうからだ。
イロリで煮炊きをしたため、子どものやけどの事故も珍しくなく、安全のためにジロノワク(写真)を取り付けることもあった。
ジロノワクは梅雨時や秋の頃の雨に濡れた山着物を乾かすときにも利用された。ジロノワクのない家では、「八足−ヤツハシ」という簡単な道具が使われた。ヤツハシは150pほどの8本の和竹の先端に穴を開けてヒモを通してまとめて、囲炉裏の周りに三又を立てるように広げて立てて、それを覆うように衣服を掛けて乾かした。
資料→昭和の初め頃の生活の様子
資料→大天井(オオソラ)
資料→囲炉裏の思い出
資料→民具補説−よろぐち(炉縁)のつくり
資料→囲炉裏の灰ならし
けしつぼ
けしつぼ(下写真)は、常に囲炉裏のそばに置いた。
大きなオキが出ると火箸で挟んで入れて、ふたをしておくと消し炭ができた。
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けしつぼ |
できた消し炭は保存しておいて、火鉢や七輪に使った。また、簡単に着火するのでカタズミ〔木炭〕を熾すときにも便利であった。
当時は、カタズミは特別の場合しか使わずほとんどは消し炭で間に合わせた。
また、イロリの隅に水を張った入れ物をおいて、オキが出ると水の中に入れて、消し炭を作る家もあった。囲炉裏のオキを水の中に火箸でいれると、ジュッと音を立てるのが面白く、子どもたちも進んでやったものだ。
資料→消し炭を作る様子
シダナ(火棚)とカギサマ(自在かぎ)
たいていの家では、イロリは座敷の中のミンジョ(台所)寄りの位置にあった。炉の上には四角形のシダナ(火棚)が天井からつり下げてあり、シダナの中央にはカギサマ(自在かぎ)が下がっていて煮炊きができるようになっていた。(写真)
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ヒナダ〔火棚〕 |
自在かぎは、その名のとおり自由自在に高さを調節できた。梁から下げられたカギサマは、ワラ縄で固定されていたが、その縄は、何十年も煙が染みこみワイヤーのように強靱であった。
また、自在かぎは「カギサマ」と昔から敬称で呼ばれて来たとおり、神聖なものとして扱われ、どこの家でも子どもがいたずらすると厳しく叱った。また、探し物をするときには、カギサマに藁を結んで頼むと見つかるという俗信も伝えられた。
シダナの用途は、ぬれたフカグツやワラグツを上げて乾かしたり、サツマイモやカボチャのゆでたものをザルに入れて上げて置いたりした。また、濡れたヤマギモンを火棚に下げて乾かすこともあった。
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火棚の上でワラグツを乾かす |
また、当時は、野菜の種は自家取りであったので、子供の頭ほどの種ナスをシダナにつるして乾かしておいた。それを春に水に浸して種子を取り出した。
イロリは年間を通して煮炊きや暖房のために火が焚かれていたので乾燥場所としては最適であったと言える。
資料→シナダの思い出
コタツとアンカ、カイロ、ユタンポ
コタツは、イロリとともに冬季の一家の団らんの場であり、子供はコタツに入って遊んだり勉強したりした。
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コタツヤグラ |
コタツは座敷の床板を切り、トタンやタキノフチ石(地元の凝灰岩)製の炉をはめ込んで作られていて冬季以外は板でふさ
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コタツのアミ |
ぐ仕掛けになっていた。
夏季にはコタツの灰の中に鶏の卵を並べて保管しておく家もあった。(→参考写真)
コタツの熱源には、イロリのオキ(熾き)を使った。
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ユタンポ |
イロリの薪が燃えてできた赤々としたオキを火箸で十能にかき入れてコタツに運んだ。コタツのオキは、灰で覆っておいて、冷めてく
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カイロ〔炭火〕 |
ると備え付けの用具(お好み焼きのへらのようなもの)でオキを掻き出した。コタツの枠はコタツヤグラ(写真)と呼んだ。また、火床には安全のためにコタツ網(写真)をかけて使った。
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置きアンカ |
また、掘りコタツのない部屋では置きアンカ(写真)も使われた。
時には、コタツの熱を利用して納豆を作ったり酒のモトを作ることもあった。
その他、おひつを入れてご飯の保温にも利用した。
囲炉裏のオキを利用したカイロは、周りにたくさんの空気孔のあいた金属製の入れ物(写真)に藁灰で包むようにオキを入れて布で包んだ。
ユタンポ(写真)は、熱湯を入れて厚い布でくるんだ。
昭和30年代になると豆炭アンカ(→民具−豆炭アンカ)が普及した。
民具補説→湯タンポとアンカ
資料→コタツの思い出
民具補説→豆炭アンカの思い出
資料-古文書に見る昔の日常生活諸用具
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