(1935年頃)の寝間
                            

 どこの集落でも、昔は家の構えの大きさには差がありました。本家や重立ちと呼ばれる家など比較的大きな家では、上部屋(オビヤ)と台所の近くに下部屋(シモベヤ)があり、(住居間取り図参照)各部屋にはワラクズがぎっしりと敷き詰められていました。
 中には玄関(中門)やミンジョ(台所)の上に二階の部屋がある家もあり、黒光りのする古い梯子がかけてありました。
 当時は、2世代同居は当たり前で3代の夫婦が健在という家もあり、嫁と姑のお産が重なることもしばしばあるほどでした。
 家族は少なくても6人、多勢の家では12〜13人ほどの家も珍しくはありませんでした。我が家も大家族でしたのでよく祖母が米びつの米が数日で空になってしまうと、くどいていたことを憶えています。

 さて、当時の寝室ですが、我が家にもデイの隣のオビヤ(上部屋・奥部屋)と台所の隣にシモベヤ(下部屋)がありました。
 私の家では、父母はシモベヤ(下部屋)を使っていました。そこは板張りの上にムシロが敷かれた薄暗い部屋でした。
 祖父母は、オビヤ(上部屋)を寝間にしていました。子ども達は祖父母や父母の部屋に分かれて一緒の部屋に寝ていたものでした。
 冬季は祖父母や母は湯タンポを使い、幼い子どもは抱かれて寝るのでした。年上の姉達は端の方に別の布団を敷いて寝て居ました。また、夏には大きな蚊帳をつってその中に寝ました。
 そのほか、デーと呼ぶ仏壇のある部屋もありましたが、 ここはお坊さんや大切なお客さんが泊まるときだけ使用しました。母の姉妹や親類の人が来て泊まるときにもデイは使いませんでした。特に、当時は女性をデイに泊めることは尼さんでもない限り無かったと思います。
 どの寝室にも枕元にはカンテラが置いてあり便所に行くときには、カンテラを囲炉裏の火をツケギに移して灯しました。
 便所はトマグチ(玄関)の脇にありましたのでそこまでカンテラで足下を照らして行くのでしたが、吹雪の夜などはすきま風が入ってカンテラの火も消えそうでした。それでも、母の寝床に湯タンポがあるので何とか足を温めて眠ることができたのでした。
 昔の寝室はどこの家でも、日当たりや採光のよくない薄暗い部屋であったように思います。また、当時は、掛け布団はヨウギ(夜着)と呼ぶ袖のある布団でしたが肩の辺りをしっかりと覆うので温かいものでした。
 また、当時は普段、使っている布団を天日に干すという習慣もなく、敷きっぱなしの状態で衛生的には問題があったと思われます。
 その後、昭和20年代後半(1950〜)に入ると中門造りの中門を新しい玄関に作り替えて二階を若手の部屋にする家が増えてきました。
 またその頃から、生活改善運動が盛んになり、便所や台所の改良とともに寝室の採光なども改善されるようになりました。

      文・図 田辺雄司(居谷在住)