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備考
○現在の郵便局の在る場所あたりは「番平屋敷」とよんでいるが、ここに、近世、口留番所が置かれたと伝えられている。 ○集落を「イリムキ」「シモカタ」2区に分けていた。イリムキは大野からの道を境に西側、シモカタは東側であった。道普請は各区に分かれて行った。 ○屋号カクエンとタキンソウの家の間にジョウスケ〔重助〕という家がありその近くに「重助橋」という橋があった。 ○昔、屋号エンノヤケの南側〔上図エンノイエモチの場所〕にトクエン〔徳衞門〕という家があった。 〇上の地図の石黒川の右側の支流(沢)は「ばしたどころ」または「ばしどころ」と呼ばれている。 〇屋号「坂本」の脇を流れる沢は「南山沢」と呼んだ。 |
○屋号ヨコテの北側下〔現国道沿い〕にキュウゼン〔久左衞門〕という家があった。 ○小岩峠の谷を源流とする川はヤマソガワ〔山添川〕と呼ばれた〔トンネル入り口左側〕。その先を少し上るとかなり広い水田跡が見られる。「小屋の平」の続きであり耕作地もそう呼んだという。 〇「出会入り」の水田の水源となっている沢は「角間沢−かくまざわ」と呼ばれ、その源流は上越市角間に達する。 ※昔のエビス屋の店は上石黒の西の家を譲り受けたものと聞いている。「おめえ(母屋)」もあったと伝えられる。 「おめえ」のあった場所は、屋号「東」、「西」(エビスヤの元の家)、「向かい」、「上の山」などの場所から推察して屋号「田甚」の近辺であったのではなかろうか。 〔編集会〕 |
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○集落を「ホムラ」「エワムラ」「テェツケ」3区に分けていた。道普請は各区に分かれて行った。葬式の準備はエワムラを2分してホムラとテェツケの2つに分けて行った。 〇屋号「東」脇から「いなば」、「でんねん」脇を通る道は大野集落に通じていて花坂方面への農道としての主要な道で大野集落や板畑集落の人が通ることもあった。また、上地図屋号「しちろうみ」脇から屋号「はやし」「いわかた」脇をとおり前記の道と合流する道もあった。(2021年現在も農道として村人の年2回の道普請により維持されている。)その他、屋号「げんべえ」脇から上り屋号「久保田」脇で本道に合流する村道もあったが現在は原野化している。これ等の道は下石黒集落の作場が大野集落方面に多かったことを示している。 |
○昭和時代には、すでになかったが、屋敷跡の地名などから、上図「わかみや」の屋敷の近くに「ジョウゴモリ」、そのすぐ上に「ごぜん」、また「かいじ」の近くに「げんごろう」、「しちろうみ」の近くに「うら」、「よこて」と「しものいえもち」の間に「ロクスケ」(→参考資料クリック)という屋号の家があった。また、上図の「ぜんぜん」と「よこみち」の間に「いわしば」という家が、「東」の家の近く、現在の集会場(上記地図には記入さていない)のあたりに「ごんぜぇん」という家があったと伝えられる。更に、上図の「よしぐい」の下に「ちょいみ」という家もあったという。また、集落図の「東」の屋敷に「さかや」という家があり、姓は「関矢」であった。東の家は図の位置より集落センター寄りにあった。 なお、柏崎市の布団屋「やまとめ」の先祖の家が現在の集落センターの敷地あたりにあった伝えられる。 |
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備考
○弘化4年3月の上信越地方の大地震、いわゆる善光寺地震で大野集落では大きな被害が発生した。とくに、現在の集落東側、屋号「長吉」の前方にあった14軒の家が深刻な被害を受け、住宅の移設を迫られた。 この時に、石黒村は地震被害の状況を3月末に代官所に報告した文書が残っている。→乍恐以書付御注進申上候 更に、4月末には地震救済のための30輌の救済金の借用を申し込んでいる。→奉差上御拝借証文之 ※古文書原文資料 〇恐れ乍ら書付を以て御注進申上げ候 〇恐れ乍ら書付を以て御拝借願い奉り候 〇大地震−弘化4年−善光寺地震 |
○善光寺地震で被害を受けた家の多くはブナ林(上図屋号「やました」付近一帯)に移転したが、その後、地滑りが発生し再移設を迫られる家も発生した。また、この時に北海道に転居した家(屋号ゼンゾウ)もあった。 ○大野集落は石黒で唯一平地が広がっているいて一見安定した地盤に見えるが軟弱で地震の影響を受けやすいばかりか、地滑りも発生しやすく昔から田畑の地滑りの被害も多い。 〇現在の田場所「元屋敷−もとやしき」の地名の由来は昔、現在の松林の入口あたりに4〜5軒の大野の家があったが後に現在の場所に移転したことによると伝えられている。 |
四季の板畑 | 小雪の冬2009.2板畑 | 石黒の秋 | 雪降りの板畑 | |||||||
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備考
〇クリック→詳細板畑集落図−作図−中村治平氏 ○集落を「ミヤシキムキ」と「アライムキ」と「マツノソト〔マツノソデ〕」の3区に分けていた。この区ごとにカヤ場を共有して管理したり、道普請や葬式準備等の生活面でも協力した。 ○屋号「寺屋敷」のあたりに、昔、寺があった。しかし、事情があって東頸城郡〔上越市〕大平に移転したと伝えられる。今日でも、上越市大島区大平3880番地、曹洞宗大安寺には板畑の菩提寺の祖先の位牌があると伝えられる。 ※関連資料 須田英一「私の心の故郷板畑」 ○屋号「さんえん」前の杉林の中に屋号東という家があった。その家は本家の最初の分家であり、分家時に観音様をもらった。そして、屋号西は諏訪さんの祠を貰って分家した。屋号向いは、山の神の祠をを貰って出た。 ○屋号「ほしば」についての記録→クリック |
○村の神社である熊野社は、昔は屋号「佐右衛門」の前にあったが、地すべりの被害をうけ、現在の場所に移転した。今でも、「佐右衛門」の前に昔の神社の石段等のが残っている。
○火葬道具置き場は元は釈迦堂であった。現在消防小屋の隣の建物に納めてあるお釈迦様〔十数体〕が祀られていた。4月の釈迦の涅槃祭の時に村人がお参りに行った。その後、その釈迦堂は葬儀置き場として使われるようになった。→仏像写真 |
四季の落合 | 小雪の冬2009.2落合 | パノラマ落合 | 石黒の秋 | 雪降りの落合 | |||||||
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備考
○昔は境平村(さかいびら村−江戸期の古文書に見られる)と呼んだ。 ○集落を「ニシムキ」「トヤムキ」「カワムコウ」「バナカ」の4区に分けていた。 ○川向うには、旧家-屋号「東」ほか、7軒の家があった。(屋号東の家→川を流して寄合まで運んだ家) ○資料→下・上石黒から落合へ3本の旧道 ○ちなみに石黒の地番は落合の川向かいの嶺村より始まっている。 ○現在の地名「古屋敷」の田は昔の「えいにゃま」の屋敷跡 ○大橋一茂家文書の「御願書」によれば落合村の古名は「境平村」とのことである。 |
○屋号「まなごだ」の下から寄合に通じる道は、昭和20年頃に開削された。それ以前に旭村に至る作場「おっちゃたけ」を通り旭村に至る道とつないで寄合〜旭村に至る本格的な道路の構想もあったが、上・下石黒集落の反対もあり実現しなかったという話も今に伝えられている。 ○集落西方の川向かい一体は「せぎのいり」と呼ばれる田場所であった。数町歩あったが傾斜が急であることと北向きであることなどから1990年代に地主が離村するとともに放棄田となっている。→参考画像 |
四季の居谷 | 小雪の冬2009.2居谷 | パノラマ居谷 | 石黒の秋 | 航空写真 | ||||||||
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〇居谷集落では昔から18軒の家数を守るという決まりが伝統的に守られて来た。耕作地に恵まれない地形にある石黒のような山地では新田開発もままならず、家数が増えるということは一戸当たりの耕作地が減るということを意味した。 | 資料→居谷部落の字及び小字の名前について |
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備考
○門出寄合と石黒寄合の入会地をめぐる争議は寛文年間のころから以後、実に250年余にわたって続いた。詳細は石黒村の歴史−山争議を参照 ○昭和の20年の頃にはすでになかったが、現在の屋号「カクゼェン」の隣に「ミズカミ」と「エイニャマ」という家があった。分校の近くには「タノジリ」という屋号の家があった。 また、終戦当時には分校近くに「カワタニヤ」という屋号の家があった。 |
○寛政4年に魚沼郡より寄合村に移転し親類に身を寄せ、後に分家に出してもらい、その恩を忘れずとの一札の古文書が見られる。参考までに掲載→入置申一札之事-クリック |
備考
〇昭和30年、町制施行により高柳村が石黒村を合併し高柳町(総人口1万0654人)となり、上寄合(石黒村)と下寄合(高蜻コ)は合併し寄合となった。 |
〇門出寄合と石黒寄合の入会地をめぐる争議は寛文年間のころから以後、実に250年余にわたって続いた。詳細は石黒村の歴史−山争議を参照 |
中後集落跡スライドショー |
備考
天保13年の「越後国細見図」には、門出、中子(※中後)、板畑、居谷、中坪」が見られる。 地形は、標高約400mの石黒村との境界付近から、男山に面した斜面に家屋が点在した。境界付近の高台には、墓地、諏訪神社、門出小学校中後分校(昭和46年閉校)があった。 その後、中後集落は、昭和46年に過疎地域対策緊急措置法により集団移転をさせられた。転出対象は13戸29人であった。→右欄へ |
それは、村民の永年の念願であった県道78号線が石黒より開通した直後であった。内実の事情を知らない者には「引っ越し道路」などと揶揄するものいたが、中後住民にとってはまさに苦渋の選択であったであろう。 |
○門出小学校中後分校校舎は現在板畑集落に移築され農作業場として使われている。→下写真 |
〇中後には諏訪神社が祀られていたが、もう一か所、黒姫神社に上る途中に神社があった。 中後からその神社に至る道は黒姫山の機神様の神社への道であり、門出方面から多くの人々が通る道でもあった。そのため、毎年、草刈道普請が行われて整備されていた。 この神社の祭りは村の諏訪神社とは別に毎年行われていたという。 |