昔の葬式(板畑)
                            
 私が子どもの頃は(昭和のはじめ)村で人が亡くなると朝の5時ごろに、ホラ貝を吹いて不幸(死にごと)があったことを村中に知らせるのがしきたりでした。
 葬儀の日には村人(当時は板畑は60軒ありました)がワラ1束(そく)と薪2本持って焼き場(火葬場)に集まってヤマづくりをしました。ヤマ作りは、村を3つの班に分けて喪主のいる班は家の片づけなどを手伝い、他の2つの班がおこなう決まりでした。
 当時のヤマは、焼き場の平地に、棺箱を置いても崩れないように薪を積んで周囲をワラ束を編むようにして囲い、棺がちょうどよく入るように作りました。
 出棺は夕方に行う習慣でしたから、出棺の後、野辺送りの村人が列を作って焼き場まで送り、このヤマにお棺を据えて火をつけて一晩かけて火葬するのでした。朝までに、何度か燃え具合を見に行く必要もあり大変でした。
板畑集落バス停付近

 そこで、私が22歳のころ(終戦直後)に村の青年会で火葬場の改造をすることになりました。当時は大勢の青年団員がいたので黒姫山の中腹から石を集めて運んで、上寄合の石屋、屋号「ゴンジロウ」さんに頼んで造ってもらいました。改良の火葬場は穴を掘って空気口をつけて燃えやすい構造にしました。
 火葬場を改良したことで、その後は薪はそれまで通り一軒2本ずつ出しましたがワラは少しで足りるようになり、村中の人に喜んでもらうことができました。
 私の父は昭和33年に刈羽郡病院で亡くなりましたので、柏崎市の火葬場で火葬してもらいました。しかし、昭和40年に入ると石黒でもボツボツと柏崎の火葬場が使われるようになり平成になる頃は村の火葬場が使われることはありませんでした。
 また、当時は葬式のお経が終わると、住職と喪主がザルに入れたダンゴ(2月8日の釈迦のダンゴのようなもの)を葬儀に集まった人に向かって撒きました。
 お寺さんに聞くと、それは、施餓鬼(せがき)の供物と呼び祭壇に飾るダンゴと同じものだそうです。
 戦後は、ダンゴに変わってお菓子が撒かれるようになり、旅(他県)から来た人は、葬式にお菓子を撒くのを不思議に思ってその訳をたずねる人がいました。
 しかし、食べ物に乏しかった当時は、葬式に撒くダンゴが家族へのお土産になったことを考えれば、お菓子に変わってもごく自然の事だと思います。

文・中村長平
 (石黒在住)