祖父の死
                        

 〔前文略〕私の祖父との対面を待っていてくれた湯灌の人たちは、さらしの褌姿で、裸の上に綿入れを引っかけて火にあたっていた。
 その中に十日町から駆けつけた2人の叔父もいた。私もそうだが、私より一足先に着いたばかりで、疲れきった様子だった。そんな事情から湯灌が遅れたのだそうだが、私には間に合ってよかったのである。
 1ヶ月のうち、ふた親を失った叔父たちは、この雪道を9里の山坂を越えて来たが、二度とも妻子を伴うことの出来なかったことを残念がっていた。
 人の動きで、家の中がざわざわしてきた。いよいよ、湯灌がはじまるという。仏間の入口近くに新しい莚が敷かれ、その上に木のたらいが置かれた。裸人足が立ち上がる。裸人足とは、死者の身近な人によって遺体が清められる湯灌に携わる人のことを指す。今日は父と、叔父2人と甥の4人だ。私が十歳の頃弟が死んだ時の記憶があるのみで大人になってからは初めての経験である。
 親類縁者が、たらいのまわりに集まったところで祖父の着衣が脱がされた。死者の硬直前に膝を組ませてある遺体を、4人がかりでたらいに坐らせる。と、母が手桶の湯をしずかに注ぐ。
末の叔父が祖父の身体を後ろから支え、あとの2人が、新しい手ぬぐいで身体を洗う。
 これが終わったとき父が剃刀で祖父の頭を丸坊主に剃る。女でも剃るのがこの地方のならわしだ。叔父が支えながら声を殺して、くっくっと泣いているのが聞こえる。まわりを囲む人たちが、「なんまんだぶつ」と繰り返し念仏を唱えている。四方に火鉢を置いても寒いのに、父たちは素っ裸で、黙々とやっている。今まで着ていた衣類の数に死者を坐らせて乾いた布で水気を取り、行事は終わった。
 坐棺が引きよせられた。甥の一人が、大工の棟梁の腕前で作ってくれた立派な棺桶だ。4人がかりで納棺すると、白いカンレー紗の半着物が着せられる。この死装束は身内の何人かの女によって縫われる。そのときは決して糸は結ばないことになっている。だから、着物は大ぜいの手で縫われることをこの地方では嫌うし、糸もちゃんとこぶをつけろと教えるのは死装束の縫い方が由来だという。
 つぎに、白い半紙を三角に折り、こよりの紐を両端につけたものを額につけさせてから、体が傾かないよう、きれいな藁を遺体のまわりに詰めて、手に数珠をかける。これで納棺が終わる。
 裸人足は湯殿にいき、身体を洗い風呂につかってから着物を着るが、この人たちは、汚れている〔死者を扱ったこと〕ということで、半年間は氏神さまに行くことが禁じられている。
 納棺が終わると、その前でお経の唱和があり、それがすむと人々は帰っていき、その後は、身内だけの通夜となる。通夜の席でやっと祖父の発病からの経緯を聞くことができた。〔略〕
 やま作り〔焼場の準備〕が終わったと報告があった。村はずれの川の近くに村の焼場がある。何メートルかの雪を割って四角の石組の上に4本の柱を立て、その中に藁で棺桶を納めるやまの下準備のことだ。明日は各家から藁2束、薪3本が出されたものが使われる。昔から伝わっているので、すべて村人の手でやってもらえる。
 〔略〕仏間が明るい。がんぎがあけられたからだ。家をすっぽり囲む丈余の雪のため、あいている箇所はすべて落し板で囲ってある。葬儀のとき、がんぎから出すしきたりだから、雪を堀り出棺の準備を可能にしたのだ。
 このがんぎから出入りするのは、坊さんと嫁入りのときと、死んだときだけだ。お棺は必ずここから出ることになっている。
 広い仏間は客間もかねている。横の方に、昨日村人の手によって金、銀、白の紙で作られた蓮華の段花が3対。四角の提灯、三角のいろ紙〔男が額に巻きつけるもの〕が準備されている。 菩提寺は、浦川原にあるが、この雪の中では無理で、竹平と、角間のお寺のお坊さんに頼むため、迎えの人が朝早く出ているから、葬式は午後になるという。朝食が済んだころ、手伝いの人たちが集まってきて、手分けをしながら準備に取りかかってくれた。雪の上の庭が踏み固められ、坂道は滑らないように段がつけられた。
著者の生家

 父が家の前で、ほら貝を、ぼーう、ぼぁー、と吹くと、向かいの山にこだまして二重に聞こえる。これは、「今日は葬式をやりますからお願いします」という合図なのだ。すると入り向〔班内〕の各家から三つ文ん字の道に、藁2束、薪3本が置かれ、やま作りの係がそれを集めて焼場に運ぶ。
 やがて、坊さんが到着し、親類縁者が集まり、それぞれの席についた。男のいろを着る人は、紋付袴に三角紙を額に巻きつける。女は、叔父の妻たちが来なかったので、母と本家のばばさ、母方の祖母と祖父の姪など5人で白装束の姿で坐る。虫干しのとき、母の白倫子の喪服での一揃を見ていたが、この式服を着た母の姿は、初めてである。
 これは、結婚した女性の喪服で、私は学生服で参列した。
 仏壇の前を少しずらし、向き合うように棺桶がおかれ、村人の作った蓮の花の段花3対が両側を飾り、浄土真宗東本願寺系のお経が2人の坊さんによって唱和される。葬式用の大きな鐘が打たれると、荘厳な境地に引き込まれるようだ。血縁の順に焼香し、その後、故人の話を説教のようにして坊さんが話し、式が終わる。
 いよいよ出棺となる。棺桶を吊るす2本の丸太の棒がくくりつけられ、がんぎから出され、雪のにわに置かれた。経が上げられ、ガァン、ガァン、ガァンと打ち鳴らされる鐘が悲しくひびく。この家との決別を意味するのだろうか。
 四角の提灯を先頭に葬列が村はずれのわが家から村を縦断し、焼場まで長い雪道を進む。村の人たちが道に出て、念仏を唱えながら見送ってくれる。
 今日は、珍しくいい天気とか。焼場に着くと4人の担ぎ手が、棺をやまの真ん中に下ろし、すっぽりと入れた。
 最後の読経が終わると鐘が打ち鳴らされ、別れが告げられる。父の手によって火がつけられると、ぼうーと炎が立ち上がる。裸人足を残して参列者は帰途につく。
 仏間と居間をぶち抜いた大広間に、おときにつく人を待っている。仏壇を背に、坊さんを真ん中にし、左右に席順が決まっている。下坐に亭主役〔司会〕として本家の当主が当たってくれる。私は母に着物をきせられ、給仕女をつとめることになった。何人かの若い手伝いの女に交じってやることがうれしかった。ごはんをよそうときは、東京式にフワフワと軽くしないで、山盛りにつめるようにと母から前もって注意された。この地方のやり方だそうだ。
 父たちは火の具合を確かめてから帰ってきておときの膳についた。本膳は黒塗りの足つき膳に、精進料理が載せられ、その他のおかずはうるし塗りの台で中央に置かれ、給仕にまわる。二の膳に盛られているのは持ち帰り用のもので、焼麩と葬式まんじゅうに、白いおこわである。包みがみを渡すと席を立つ。二回くらいやま見に父たちがゆき、焼き具合を見てくる。祖父の場合は、患部の睾丸が残り、てこずったらしい。
 次の日、朝早く縁者が骨拾いに行き、祖父も骨箱の人となった。床の間に二つの骨箱が並べられ、雪解けを待って納骨されるので、しばらく家にいることになる。
 下の叔父が二つの骨箱の前に坐り、肩を落している姿が涙をさそった。この人も2年後、父母の後を追うように肺炎でしんでしまった。


 柳橋孝著「あとには虫の声しげく」から抜粋
〔著者 柳橋孝 旧姓田辺 上石黒出身 川崎市在住〕