〇角間村の京徳寺と嶺村の照源寺 
 昭和の初期まで、嶺村に西方寺の道場(出張所のようなも)があった。それで嶺村の照源寺角間村の京徳寺は、西方寺の檀家の多い石黒へ冬の葬式の枕経や祥月命日の読経などを代行した。ちなみに、嶺村の照源寺と角間村の京徳寺は所在地の村が廃村となり現在は存在しない。



〇板畑の中村医院
昭和6年ごろ、板畑の屋号、長助の先代が、大学の医学部を卒業され板畑で開業されたが、当時は、よほどでなければ医者にかからないという時代であったため、経営が成り立たず、岡野町に医院を新築した。(越後交通案内所近くの川添の小高いところに現存)
 しかし、不幸にも数年後に病死され病院は閉鎖されてしまった。





胞姫神社

 源義経奥州落ちの途中に、この地で北の方がにわかに産気づかれた。弁慶が近くの神社の前で一心に安産を祈願したところ、北の方〔良子→義経の正妻〕は無事出産された。
 義経は、このことに感謝してこの神社に若君のへその緒〔〕を収めた。それ以来この神社は
胞姫神社と呼ばれ、安産の神様として広く知られるようになった。
 近くある井戸は、弁慶が金剛杖で大地を一突きして湧き出させたという。「産湯の井戸」として有名。


〇所在地 柏崎市上輪新田 
     国道8号線胎姫大橋と上輪大橋の境目にある山


 伝 説
源義経が、京都から奥州に逃げていく途中柏崎を通られました。上輪の「かめわり坂」という峠にさしかかった時、義経の奥方が産気づかれました。家一軒もない峠でしたので、大きな木の下に敷き皮をしいてお産をすることになりました。しかしそこには、生まれてくる赤ん坊を洗い清める水がありませんでした。それで、けらいの弁慶が神さまにお祈りをして、「水のある場所をお教え下さい」と叫んで、持っていた杖をなげました。杖は上輪新田の方に飛んでいき、大きな岩につきあたりました。その大岩をころがすと、岩の下にはきれいな水がこんこんとわき出ていました。まもなく、無事男の赤ん坊が生まれ、長生きできるよう「かめつる」という名前がつけられました。かめつる様の誕生は、人目をさけて逃げ続けているみんなの暗い心を、明るくはれやかにしてくれました。そして、お祈りしたほこらのそばにかめつる様のえな(胞・・・胎児を包む膜や胎盤)を埋めました。
 また、かめつる様が力持ちになれるよう、餅をついてお祝いすることになりました。一番餅を弁慶がつき、「弁慶の力餅だ」「ぺったん」「ぺったん」と言ってつきました。 〔深田 信四郎著 「昔の話でありました」〕



  サンジュウサッパの着物

 昭和20年代頃は未だ新生児の死亡率はかなり高かった。特に、母乳が出ないとなると深刻であった。そのようなときに、元気に子どもが育っている家から、33枚の端切れ布をもらって着物を作って着せると丈夫に育つと伝えられた。
 筆者も33布の着物を着せられた一人である。母乳がまったくでないために6人の兄弟が死んだからだった。
 石黒ではこの着物を「サンジュウサッパの着物」と呼んだ。


    嶺村について
 嶺村は、石黒と境を接した村であり、嶺、藤尾、竹平、大角間の4つの集落から構成されていた。嶺村の中心は嶺集落であり、役場や学校は嶺集落にあった。
 嶺村は、石黒と高柳村間が車道開通するまでは、石黒村と往来が盛んに行われ生活圏を構成していた。医療、交通、商業、婚姻など密接な関係にあった。
 嶺村との町村合併も真剣に検討されたこともあった。