二番ごの草取り
                          田辺雄司
 当時(昭和の初め頃)、居谷では、毎年7月1・2日は「田休み」でした。
 春の雪消えとともに苗代つくり、田打ちと田かき、そして田植えと続き、その間には野菜の種まきをしてきました。そして一番ごの田の草取りも終わり一段落したところでの農休日が「田休み」でした。
 前の日は、女衆は、チマキを作りやご馳走つくりにてんてこ舞いです。男衆は、馬屋の掃除、肥あげ(馬屋の敷き藁の取り替え)で、カギのついた棒で敷き藁を引き出し、馬の糞を拾い分けたり、馬屋の中央に埋めてある尿ため桶から柄杓で尿ををくみ出し「桶肥」と呼ぶものを作ったのでした。それから、夕方には2日分の馬の草を刈ってきて日陰に置くのでした。
ササモチ

 そして、その晩からはゆっくりと休み、翌朝はどこの家からもドンドンという餅つきの音がして、いつもよりは遅いゆっくりとした朝食でした。モチは主に「ササモチ」で、ササの葉を十文字に重ねて包みモチに密着させることで空気を遮断して青カビなどの発生を防ぐのでした。(左写真)さらに、私の家ではササモチを横井戸の涼しい所に保存しておいて、毎朝食べる数だけ取りだしてくるのでした。
 田休みには、隣近所の人達が遊びにきて地酒を飲みながら歓談するのが毎年のことでした。話題はやはりイネづくりの話が多く、「このまんまの天気でいてくれればいいのう、だども、こればっかしゃ人間にはどうにもならんしのぅ」などと言う人もいました。
 しかし、田休みとはいえ、やはり百姓根性というのか、夕方になると「はて、田でも見てくるか」と足が田に向かうのでした。一日たりともイネの姿を見ないでは居られないというのが当時の百姓でした。
 2日休んだ後は2回目の田の草とりが待っています。その前に、田のクロ(棚田の畔につながる斜面)の草刈りをしました。ようやく草刈りが終わるといよいよ二番ごの田の草取り、草も生え、取り残したヒエもイネの丈ほど生長しています。二番ごの草取りには、大きく生長したイネやヒエの葉の先で目を突かないように留意しました。細かい網のお面(下写真)をつけてやる人もいました。目を突くとなかなか治らず大変でしたから。
 その頃になると日中は暑く、山着物の背の帯にホトラ(ワラビの生長した葉)を4本ほど差して日陰をつくり暑さを守る工夫もしたものでした。とはいえ、昼あがりの時の山着物はすっかり汗でぬれていて乾いた所などありませんでした。それをタネ(家の脇の池)でジャブジャブと洗い天日に乾かしておき、午後からも、それを着ていくのでした。有り難いことに、昼寝起きには、ほぼ乾いたものでした。
 二番ごの頃になると、田の草も花をつけてオモダカなどは白くきれいな花をつけていたものでした。また、イネの株の茎数も増えるにつれ草の方も大きく生長しているために田の草とりは大変のようでした。
田の草取りのお面

 私たち子どもは畔草とりをしましたが、畔豆も大きくなり雑草もそれに負けずに生長してるので容易ではありません。しかし、当時は、子どもの手伝いは家の農作業の段取りに組み込まれているので逃れることはできません。パンツとランニングシャツ一枚で、夏休みになると毎日のように畔草とりに精を出したものでした。父や母は夕方うす暗くなってから馬の草を刈って家に帰るのでした。一日中の腰を曲げての田の草取りの時などは腰に来るらしく「ああ、腰がいてぇ」などと言っていたことを思い出します。
 毎日、暗くなってから家に帰えり、風呂に入ってみんなで夕飯を食べるときには、石油ランプの暗い灯も何となく明るく感じたように記憶しています。