遠山からの焚き物取り入れの思い出
                                大橋サツ
 今では、もう70年も昔のことなりますが、秋の焚き物の取り入れをことを時々思い出します。
 私は、女ばかりの8人姉妹の長女に生まれましたので、家の跡取りということで小さい時から祖父や父から農作業や焚き木切りなどに連れて行かれ、それとなく教え込まれたように思います。
 春のボイ〔柴木〕切りにも祖父について何度が出かけた記憶があります。そこは下石黒の自宅から大野集落を越えて現在の花坂新田の手前で谷川に下りて小川を渡り、そこから向かいの山に上るのでした。沢には大きな丸太2本の上に板を敷いた頑丈な橋が架かっていました。
 その谷沢の向こうには「泊まり山」(屋号-下石黒のデンネン、コブタ、ゲンジン、大野のナカシモなどの田があった)と呼ぶ作場がありました。
 
 ボイ切の山付近の様子
 私の祖父がボイ切りをした場所は、そこからさらに山を頂上まで上り尾根から北西の斜面を下りたところでした。
 ここには、昔から、太いボイ〔柴木〕があることは村中の人たちは知っていましたが、急な傾斜で岩場〔黒姫層露頭〕もあり、切った木は山の尾根まで持って上がらなくてはならなかったので誰も切る人はいませんでした。
 でも、私の祖父と父は、体格もよく、背負い荷など他の人の2倍も背負うという評判の人でした。特に、祖父は米俵を両手に下げて軽々と運んだと聞いております。そんなわけで他の村人たちが誰もいかない場所まで行ってボイ切りをしたのでした。
 このあたり一帯は「キンノクラ→木の蔵?」と呼ばれていましたが、地名の由来はボイに適した低木が沢山生えていたことにあるかも知れません。
 また、そこは、上石黒と下石黒のどちらも入ることのできる共有地で、鵜川地区との境でもありました。
 ボイとして切った低木は、タニウツギマンサクコナラオオバクロモジリョウブヤマハンノキアブラチャンヤマザクラサワフタギタムシバブナコマユミミズナラヤマモミジなどであったと思います。
 切ったボイは、粘りのある低木のマンサクやコナラなどを使って束ねます。そして一旦、尾根まで運び上げます。そして尾根で直径1mほどに大束にまとめて石黒側の斜面を転げ落とすのでした。まっすくに狙い定めた場所に落とすには束の中心から左右の重さと直径が同じように束ねることが大切でした。
 こうして、下の残雪の上まで落としたボイは、そこで、平らな所にニオに積みます。
 ニオは、水はけのよい場所を選んで太い木を土台に置いてその上に積み上げます。そして、前年の秋に刈り取って杉の木などに縛り付けて置いたカヤで屋根を葺いて雨除けをするのでした。こうして秋の焚き物取入れまで置いて乾燥させるのでした。

 そして、約半年後、十五夜祭りの9月15・16日の後、稲のハサごしらえが始まる前の晴れた日を選んで家までの運搬をしたのでした。〔当時の稲刈りは10月になってから始められるのが普通でした〕。
 当日は、一家総出の作業でしたから、朝早く起きて二升飯を炊いて、各々のワッパに山盛りに詰めた昼ごはんに、味噌と漬物をこれまたワッパに詰めて持って出かけました。まだ、残暑のころで、ツクツクホウシの鳴き声が盛んにしていたことを憶えています。
 
         大野用水路の通り道
 衣服は山着物にモモヒキ、履物は草鞋であったと思います。
 こうして、1時間余ほど歩いて、ニオの積んであるところに着きますと、ニオの雨よけのカヤを取り除いて、各人がボイ束を蓑と荷縄で背中に背負って、再び谷の沢を通って坂道を上りエマル〔大野用水路〕の近くまで運び出します。ここが第一中継点で、まず、ここまで全てのボイを運び上げるのでした。
 私や妹たちは3束〔30sほど〕ずつ背負いました。道の途中には必ず「休み場」という場所が数か所作られていて段になっていて、そこに背の荷物を載せるようにして腰かけて休むのでした。
 ここからは用水路脇の小道をとおって大野集落入り口の地名「元屋敷」まですべてを運びます。ここまでの用水路脇の道は平らでしたが狭い道で一方は断崖絶壁の場所も多く足元に注意が必要でした。
 その日の昼飯はなるべく眺めの良い場所に背負いミノを敷いて、一家で食べました。ワッパに詰めたごはんはとてもおいしかったことを忘れません。目の前は遠くまで視界が開けて、五層六層にも遠くの山々が重なって見えとても眺めがよいところでした。また、たくさんの赤とんぼが秋の日差しに羽をきらめかせながら飛んでいたことも憶えています。

 こうして、この第2中継点の大野集落の元屋敷まで全てのボイを運び終わると、ここからは、地名「シモッパラ」の親子地蔵の前を通って、下石黒の自宅に運びます。
 
 親子地蔵

 地名「ツマキダ」のブナ林の道を通り過ぎると下石黒の住居である屋号「アラシキ」の家の裏に出てそこから村道を下って行くと石黒川ぞいに私の家に着きます。
 しかし、当時の集落内の道は、川沿いの私の家まではもっぱら下りの坂道で、雨後などは泥道となり、荷物を背負って歩くのは大変でした。
 屋号「アラシキ」から「シカゲ」そして「ヤスンバ」「コブタ」「ゼンゼン」「チャバタケ」そして「シモノイエモチ」から「ヘジロウ」の脇までは坂道を下るのでした。そこから「イナバ」、「シロゼン」「ヤシキダ」の家までいくと下石黒の現在の県道があり、屋号「ヒガシ」の脇を50メートルほど下ったところに私の家がありました。

 ようやく家まで運ぶと、翌日は、それを茅葺屋の天井裏まで上げる作業です。これも大変な作業でしたが、家族総出でリレー式に運び上げるのでした。こうして、一年分の焚き木を取り込み、天井裏や中二階に収めると本当に心から安堵したものでした。
 今日のようにガスコンロなどなかった昔は、燃料といえば焚き木しかなかったのですから当然のことでありました。
 ちなみに、家が狭く一年分の焚き木が天井におさまらない家では、家の近くに再びニオにしておいて冬に雪を掘って、焚き木を家に取り込んだと聞いています。
 私も歳を取り80代半ばになりましたが、今では、石黒で生まれ育って暮らした時代とはすっかり生活が変わりました。昔の石黒の生活は今の暮らしとは比べ物にならないほど不便で難儀なことことが多かったのてすが、今こうして思い出すと故郷石黒で田畑を耕して暮らした頃のことが懐かしく思い出されます。
 初夏の農繁期など、家の板の間で昼寝をしていると、家の近くを流れる川からカジカガエルの眠りを誘う鳴き声がしていたものでした。今でも耳をすますと、あの快い鳴き声が川のせせらぎの音とともに耳の奥にかすかに蘇るように思えてなりません

(市内在住 2013.3.15)