○ 旧高柳町の鳥追い行事について 長谷川和正 (かしわざき野鳥の会 「ちいさな-さえずり」 -「さえずり民俗学」-「鳥追い」から抜粋) (5)旧高柳町における鳥追い行事 旧高柳町は明治34年に8村が合併してできました。合併時の旧村落名は岡田、岡野町、高尾、漆島、荻之島、門出、山中、栃ケ原でした。そのうち岡田、荻之島、山中(塩沢集落)、及び門出において鳥追い行事が行われていました。その後合併した旧石黒村でも鳥追い行事が行われていましたが、現在も鳥追い行事を継続しているのは門出集落だけです。 各集落の鳥追いの型です。 ・ 門出 子どもたちが朝の2時、3時頃から行なった 拍子木を叩いた 集団型 ・ 石黒 各家の玄関前で鳴り物を叩いた 個別型 ・ 板畑 カナミやコスキを叩きながら大声で叫んだ 明治:最大の害鳥はトキだった ドゥと呼び、 ”いっちにっくい鳥はドゥ”などと言って追った 個別型 ・ 寄合 居谷 落合 下石黒 夜明け前に起きて、家の前の玄関で行った 子どもたちの甲高いが、夜明け前の凍てついた 空気の中に響いた 明治:最大の害鳥はトキだった ドゥと呼び、”いっちにっくい鳥はドゥ”などと言って追った 個別型 ・ 岡田 大鼓貝等鳴物を鳴し乍ら村下の村境迄歌い乍ら行った 集団型 ・ 荻ノ島 子供達は鳥追いの晩から浮き浮きしていた 村を上と下に分けて ”(鳥追い唄)”で悪口を言い合った かまくらを根城に楽しい夜を過ごした 対決型 ・ 塩沢 しきんき(下向)とおおつぼんき(大坪向)の上下に分かれた 子どもたちは、拍子木を持った雪の一本道の中央で正面衝突して、まるで戦争のようだった 大きいカマクラを作り、そこを根城にしたS28Y頃まであった 対決型 このように旧石黒村の集落は総て個別型、荻之島や山中(塩沢集落)は対決型、岡田や門出は集団型でした。荻之島は岡田や門出の間に位置していますし、山中(塩沢集落)は別の沢に位置します。このことから、対決型、集団型の地理上の連続性はありません。また、これらの旧村の間に位置する、他旧村集落についても鳥追い行事が行われていた可能性はありますが、現在のところ資料が見つかりません。 旧高柳町で行なわれていた鳥追い行事は個別型、対決型、集団型の3通りありました。そして唄もいろいろな地域の唄が混在しています。以上のことから鳥追い行事という文化の集積場であったと考えていいと思います。 ・ 石黒の暮らし編集会 2004 『ブナの里の歳時記 石黒の暮らし』 石黒の暮らし編集会 ・ 門出郷土誌編集委員会 1972 『門出郷土誌』 門出郷土誌編集委員会 ・ 小林康生 2009 『じょんのび よもやま日記』 ・ 高柳町史編集委員会編 1985 『高柳町史 本文編』 高柳町 ・ 中西茂一 1999 『じょんのび村のくらし』 ・ 山中区塩沢区 1977 『中塩沢郷土誌』 山中区塩沢区 ・ 若山政栄 1934 『岡田郷土誌資料』 (6)旧高柳町における鳥追い唄⓵ 先回、旧高柳町で行われていた鳥追い行事について紹介しましたが、前にも述べたとおり、門出集落を除き現在は行われていません。行事の時唄われていた鳥追い唄は、行っていたその集落で作られたものでなく他の地域から伝わってきたものですが、その集落の当時の生活状況に合わせ変えられたものと思います。その集落の思いが籠ったものです。内容にはその時の生活状況が反映されています。 ● 門出⓵ 集団型 あららがとりか こららがとりか しりきって かしらきって さどがしまへ ほわーい ほわい さどがしませつかなきゃ のとがしまへ ほわーい ほわい (小林康生『じょんのび よもやま日記』P102~103(2009.07(09))) ● 門出② 集団型 あららがとりか こららがとりか じろろがとりか たろろがとりか しりきって かしらきって さどがしまへ ほわー (門出郷土誌編集委員会『門出郷土誌』門出郷土誌編集委員会P96(S47(1972).03))) ● 岡田 集団型 あららとりおいだ しょうやどんのいいつけだ (若山政栄『岡田郷土誌資料』(S09(1934).09)) ● 荻ノ島 対決型 あっちんだむきのやろうどもは かえばっかまっくがって とといちわおわん ほわー (中西茂一『じょんのび村のくらし』P56(H11(1999).06)) ● 塩沢 対決型 しきんきのこども じゅうごにちのあさげ おかいばっかまくろうて とりいちわおわん かちかちかち やほー (山中区塩沢区『山中塩沢郷土誌』(S52(1977).08)) ● 石黒 個別型 やーほ やーほ (石黒の暮らし編集会『ブナの里の歳時記 石黒の暮らし』P5~6(2004.05)以下同じ) ● 板畑 個別型 ほぁー ほぁー ● 寄合 個別型 いねのとりも あわのとりも さどがしまへみんなとんでいけ ほぁー ほぁー ● 居谷 個別型 おらながしろにへえぇるな、へえぇるな えぇるとやいてくうぞ よそへとんでいけ ● 落合 個別型 やっほー やっほー とりおいだ あっちのとりもたーて こっとのとりもたーて まめのとりもたーて いねのとりもたーて (その他いろいろな作物名を入れて歌う) さどがしまへ みんないけ ● 下石黒⓵ 個別型 やっほー やっほー とりおいだ なわしろのたのあぜで こもちどりがないていた なぜなぜないていた はらがへったとないていた じゅうごにちのあっけぇくって にげろ にげろ ● 下石黒② 個別型 やっほー とりおいだ たきのふちのたのあぜに こもちどりがないていた なぜなぜないていた はらがへったとないていた じゅうごにちのあっけぇくって にげろ にげろ (7)旧高柳町における鳥追い唄② 先回、旧高柳町の鳥追い唄を紹介しました。その中で、鳥追いが行われていた集落で唄われていた各唄は、その集落によその地域から伝わってきたものがそのまま、あるいはその集落の生活に合うように変えられたと書きました。その入ってきたルートを考えます。一部以前の回と重複しますが改めて述べます。 ①北国街道ルート、②長野県~上越、十日町ルート、③群馬県~長岡ルートの3つのルートからそれぞれ鳥追い行事とその唄が入ってきたものと思います。①北国街道ルートの北国街道ですが、京都の文化を日本海側の各都市に伝える重要な道です。その道沿いにやってきた鳥追い行事が鵜川や鯖石川沿いに黒姫山の東側の山あいに入ってきたのでしょう。②長野県~上越、十日町ルートです。京都や大阪などの西の文化が愛知県を介して長野県へ入ってくるこれも重要なルートです。長野県からは現在の国道18号線(上越市)や同じく117号線(十日町市)などを通して入ってきたものと思います。もうひとつ”塩の道”(国道148号線)から日本海側へ入ってきたルートも忘れてはいけないと思います。①と②が糸魚川で会います。京では同じだった文化がそれぞれのルートで変えられ、そして融合したのでしょうか。これは鳥追いという文化だけでなく、大きな意味での文化融合ですのでアマチュアが入れない領域だと思います。ということでこの件はスルーします。最後に、③群馬県~長岡、南魚沼ルートです。江戸の文化を中山道を介して群馬県へ、そしてそこから南魚沼に入ってきたのでしょう。鈴木牧之の『北越雪譜』にも南魚沼の鳥追い行事が登場します。南魚沼~中魚沼、 及び南魚沼~北魚沼・長岡・越路の両方から入ってきたかも知れません。 ルートを考えるには唄の類似性が重要かと思います。そこで最初は、旧高柳町隣接地における鳥追い唄から紹介していきます。黒姫山の反対側、鵜川側や米山山麓は第3回(2016年5月号)で紹介しましたので、そちらを参考に願います。最初は、旧松代町です。 1.松代町小荒戸 おらうらのわせだのいねお なにどりがまくらった すずめどりがまくらった なにもっておってきた しばもっておってきた あわどりこめどり さどがしまへ やーやー ほーいほーい 2.松代町小屋丸 おらわせだのいねお なにどりがまくらった すずめどりがまくらった なんでもっておってきた しばんとりごばんとり てんじゅくえたちあがれ ほーいほい 3.松代町犬伏 あらたがとりだ こらたがとりだ おらうらのわせだの とりおいだ なにもっておってきた しばもっておってきた しばんぢりごばんとう たちやがれ ほーいほい 渡辺富美雄 1974 『新潟県における鳥追い歌-その言語地理学ー』 ㈱野島出版 |