お墓
                          田辺勇司
 「お墓の中に私はいません」という歌詞の歌が流行しましたが、私はこの歌を作った人はどんな人なのかと思わずにはいられません。自分自身、先祖様があったたればこそこの世に生きていられるのに。
 この歌が流行してからお墓をつくる石屋の仕事が減少したとの新聞記事を目にしました。

 
 居谷墓場
 私たちの集落でも神社の灯籠に「文久」の文字が刻まれています。私の家の先祖の墓にもコケでよく分かりませんが文久〔1861-1863〕の年月日が見えます。
 150年もの昔、初めに建てた頃には、我が家の屋敷の上にあったのでした。今でもその場所の田は「墓場の新田」と呼んでいます。以前に土木工事の際に水路を掘りさげていたところ幾片かのお骨が出て来ましたので拾い集めてお墓に納めました。
 昔は、神社の上り口など、それぞれの家の近くに墓がありましたが、私が祖父から聞いた話では、墓が村中に散在していては何かと不都合もあることから一カ所にまとめて立派な墓場にしようということになり現在の位置にまとめられたとのことです。〔集落図参照〕
 場所は、集落の西北の南向きの傾斜地にあります。その折りに新しく建てられた方の墓には昭和4年の文字が刻まれています。
 傾斜地を階段状して18軒の家の墓をたてるに当たってはくじ引きで場所を決めたものと思われます。しかし、総本家の親家のお墓は、神社の灯籠のような大きな墓で最上段に建てられていました。
 私が子どもの頃には、どこの家でもお盆に帰省客があり、村は賑やかで夕食がすむと皆が提灯をぶらさげて村はずれの墓場へ向かうのでした。村中の墓に蝋燭の灯がつきますと、墓場全体が明るくなり、そこで久しぶりに会った帰省客と話は尽きないのでした。
 墓参りの後は皆が神社に上りお参りをしたあと賑やかに盆踊りが始まるのでした。
 盆踊りが終わって家に帰ると、冷たい横井戸から西瓜を出してきて食べました。そして夏用のくず布団の薄っぺらな敷き布団で寝るのでした。
 少し長くなりますが、私は36歳の時、アル中になりました。
 忘れもしません、それは8月31日で私の家では法事が行われて、菩提寺の坊さんも3人こられて、40人の親類縁者のお客を招いて行われました。ところが、私はそんなわけて座敷にも行けずに二階の暑い部屋で横になっておりました。
 そのうち、うつらうつらと眠り始めたころに部屋の天井張りのあたりに見たこともない気味悪い化け物のような動物たちが一面に現れて、寝ている私を怒ったり、わいわい騒ぐので恐ろしくなり目を覚ましました。するとその化け物が群れをなして我が家のお墓の納骨するときの穴の中にすーと入っていくのでした。そんな幻想を何度も見て恐ろしくなった私が大声を発したので父と叔父が「どうした」と二階に上がってきました。私は「助けてくれ」と父にしがみつきました。
 そして、翌日、松代の蒲生の医者に診察してもらったところ、このままでは頭がパンク状態になるのて゛、すぐに高田の西城精神病院に行くようにと紹介状を書いてくださいました。
 病院には入院して70日間治療を受けてきました。その時の看護婦さんが熊本という人で「もう二度と来ては駄目ですよ」と言ってくださったことが今でも頭に残っています。
 私は、以来、酒は一滴も口にしていません。それは私自身が酒を止めたのではない。お墓から先祖様が助けにきてくれ、酒を止めさせてくれたのだと今でも信じて有り難く思っています。
 そんな経験からも「私は墓の中にいません」という歌などあってはならないし歌ってはならないと思っております。
 月にも他の惑星にも人間がいける時代ですが、なかなか行けないのが家の中の仏壇です。これは自分の我が儘でありますが、心の中では夜、横になって一日無事に過ごせたことを有り難く思い感謝し両手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と心でとなえております。何よりも健康に過ごせることが一番の幸せだと思います。
   〔居谷在住〕