箱膳の思い出
                            
 終戦後しばらくは、まだどこの家でも箱膳を使っていたのではないでしょうか。
 どこの家でもホロ(作りつけの戸棚)がありました。私の家では、その一方の棚には上段に瓶類、主に酒瓶、徳利、茶飲み茶碗、急須などを入れ、下段に箱前を重ね、隣の戸棚には下段に皿、ご飯椀、汁椀、上段にはセェ(おかず)の入ったお皿などが置いてありました。
 箱前の中には、飯椀、汁椀に小皿が1枚か2枚と箸が入っていました。食事の時には箱膳のふたを裏返して重ねて、お膳のようにしてそこに茶碗や箸を置いて使いました。家族全員が車座になり真ん中にご飯の釜とお汁の鍋を置いたり、セェ皿を置きました。せぇは大抵、取り回しで、最初に家長である祖父がとり、順次まわって最後は祖母のところに行くのでした。
 昔は、今のように肉や魚など手に入らなかったので、自分の畑でとれた野菜だけで、みそ漬け、たくあん、らっきょ漬けなどが主なおかずでした。当時の大人たちは山盛りのご飯を3杯くらいは食べたものでした。
 
   ホ ロ(作り付け戸棚)         箱  膳  

 上の戸棚の上には、出征している兄のために茶碗にご飯を山盛りに盛って水とともに供えるのが私の仕事でした。
 箱膳のなかの茶碗類や箸は、めったに洗うことはしませんでした。大人たちは茶碗にお湯を入れてタクアンなどの漬け物でよく洗うようにして飲みました。今考えると不衛生な気がしますがそれが当時は普通のことでした。
 お客さんが来ると、客により黒塗りや内朱膳が使い分けられました。冬のごく寒いときにはお客は囲炉裏に足を入れて食べることもありましたが、私たちはコタツで食べることも許されませんでした。
 コタツで食べるのは、風邪を引いたときだけで箱膳のふたの上におかゆと梅干しやナスのみそ漬けを置いて食べたものでした。夜は、売るために保存しておいた卵を熱いお湯でといて卵湯にして飲んでから寝たものです。
 また、当時は、自分の箱膳は自分で洗え、と言われてタネ(家の脇のため池)で洗って乾かしました。何度もよく洗うと乾くときれいになり気持ちがよいものでした。
 当時は、嫁に来る時に、箱膳と茶碗と箸まで持って来る人もいたとのことでした。私の家では、姉たちが高等科を卒業して紡績工場や女中奉公に出ると、余った箱膳を他の家にくれたりしましたが、子ども心にも、一つ箱膳が減るとホロの戸を開けるたびに寂しい思いがしたものでした。

   文・図-田辺雄司(石黒在住)