合併に関する申請書の添付書その1

          配置分合を必要とする理由
高柳村は刈羽郡の3南端に位する山又山の僻村であるが、住民は極めて純朴で、明治34年8ヶ村を合併して県下屈指の大村となり、その後幾星霜、堅実の歩を続けてきたが、耕地極めて狭隘で、部落は16ヶ所に点在し、役場所在地を距たる3里に及ぶ部落を有し、冬期5ヶ月、平年丈余の積雪の為、教育機関は中学校1、分校1、小学校6、分校4、組合立1、柏崎農業高校定時制1を有する地理的に恵まれざる山村である。
石黒村は陸の孤島と言われる高柳より更に不便の土地であったが、村民の努力により一昨年〔1953〕より中越バスの運行が開始された。
従来、病院関係・道路関係等、特別の関係にあり親密な間柄であり、合併促進法に基づく県案によるは当然と思考するも、貧弱村の合併は将来両村の真の幸福は望みがたいとの一部の声もあり、合併促進も遅々として居ったのであるが、今回県の勧奨により審議委員会を開くこと再三、両村ともに全村民の意志をただし、慎重合議の結果、石黒村を廃し、その区域全部を高柳村に編入することに決定した。
依って、両村議会においては、以上の理由から地方自治の中道に則り行政の合理化、能率化を実現し、以て住民の福祉を期するため、満場一致をもって村合併を議決し申請に及んだ次第である。





合併に関する申請書の添付書その2

            関係市町村の概況
1 位置・地勢
〔イ〕位置
刈羽郡の最南端に位置し、県道柏崎松代十日町線に沿い、柏崎市を距たる24q余、鯖石川上流に位し、高柳村は古くからこの郷の中心であった。石黒村は鯖石川の支流の源をなし、西南に東頸城郡に接している。

〔ロ〕地勢
村の中央を流れる鯖石川及びその支流の間に介在する耕地は狭少であり、西は黒姫山嶺を分水として急傾斜地が多く、東は中魚沼郡境に起伏する八石山の薬師山系にあり、山は積雪のため立木に乏しく、灌漑水の便も従って不便で、面積値に広袤〔こうぼう〕を加えるのみである。

2 気候
11月初霜をみ、4月晩霜あり、初雪は11月中旬で、冬期5
月余は雪のため戸外の作業は困難である。8月大暑には35度を超え、2月極寒には零下9度にも低下し、積雪は2m50pに達し、山系地は3mを超ゆ。

3 交通・通信
〔イ〕 交通
県道 高柳村・柏崎・松代・十日町線 12q
         岡野町・十日町線    4q
         山中・松代線       4q
         荻ノ島・浦川原停車場  3q
    石黒村 荻ノ島・浦川原停車場  3q    
冬期積雪時の他は貨物自動車・乗合自動車が運行し
安田町を経て柏崎市に通ずる外、東頸城郡松代町へも通ずる。
役場所在地岡野町部落は、往時の宿場として交通の要衡に位し、前記道路の整備と共に物資集散の中心地をなすと雖も、なお町道村、農道等の開鑿と俟って開発の要に迫られている。

4 通信
岡野町郵便局の他無集配局として、門出郵便局・石黒郵便局を有し、電話の架設は合計50本余で連絡の不便甚だしく、特殊地域として拡張が望まれる。

5 産業
米作農業を主とするも、規模狭小なため副業に養蚕・畜産・養鶏・出稼を合わせ営み生計を立てている。近時平場地方に乳牛の飼育が行われ、酪農村として名をなし、自然の山野草を利用して緬羊の飼育地としても有数ある。

6 教育
高柳村は小学校6ケ校、分校4ケ校、中学校2校舎、外に中魚沼郡仙田村との組合立小中学校、県立柏崎農業高等学校の分校を有し、教員90名を数えている。石黒村は
小学校・中学校及び小学校の分校2を有し、教員21名である。

7 保健衛生
高柳村は村立病院1、医院1、歯科医1があるが、石黒村は無医村で、これが措置について強い要望である。

8 人情風俗
高柳村・石黒村は各々生活状態に差異少なしとしないが、人情風俗は相似ている点も認められる。郷土愛に燃え質朴勤勉であるが、経済力に乏しく生活程度は概して低位である。



合併に関する申請書の添付書その3

            村の沿革
1 高柳町
明治34年〔1901〕年11月1日、元岡田・岡野町・高尾・漆島・荻ノ島・門出・栃ケ原・山中の8箇村を合してなったもので「高柳」は実に古くからのこの郷を称した名である。
村の分合は、明治10〔1877〕年6月25日無民戸の故を以て門出新田を門出村に合わせたる外、久しき以前より自らなる区域を保ってきたもので、明治22〔1889〕年町村制実施、村廃合の行われた当時、居谷・板畑の2小字を割きて石黒村に編入したことと、荻ノ島・漆島両村を行政組合として共同事務を処理せしめた外、従来の状態を継続してきたものである。
維新後の管轄は、明治の初め越後府柏崎民政局〔注1〕に属し、次で柏崎は県となり、明治6〔1873〕年6月大小区別を布かれ、新潟県の管轄に入る。明治12〔1879〕年郡区編制法の発布により大小区別は廃せられ、下級を町村とし、郡を中間に認め、公選の戸長を旧8箇村に置き、明治17〔1884〕年、聯合戸長の制を布き、3区域に戸長を置き自治別実施期に及ぶ。
注1 明治元〔1868〕年6月新潟裁判所〔現在の県庁〕が新潟府と改称し、その下に柏崎などの民政局があった。

2 石黒村
石黒村は往古の所管は詳らかでない。又創始年代の文献の徴すべきものもないので、これを知る由なしと雖も、徳川治世にあっては、天領に属していたことがあり、また長く桑名越中守の治下にあった。
明治元年柏崎県の所管となり〔注2〕、明治6年6月に柏崎県廃止と共に新潟県の所管となった。明治22年〔1889〕4月町村制実施と共に板畑・居谷の2部落を分合して石黒村と称して現在に至る。
昭和27〔1952〕年9月5日開道を見、翌28年6月5日バス運行を見るに至った。

注2 明治元年7月設置されたが同年内に新潟県〔越後府〕に合併、翌年8月設置され、明治6〔1873〕年まで続く

〔資料−高柳町史〕