ふるさとを後にした日の思い出

                          大橋洋子

2歳の長男を背におぶい、祖父と三人で故郷を後にした日の事が今も忘れられません。行く先がどんな所なのか、どんな暮らしが待っているのか見当もつかないまま、夢や希望より不安ばかりを抱えての離村でした。
 辿り着く先には一足早く村を発った夫と4歳の長女が待っているということだけが不安な心を安らげてくれました。

 必ず迎えに来る事を心に刻んで先祖の墓を残して去る事の心残りもあってか前日の夕食は美味しくなく喉を通りませんでした。
 雪深い石黒での暮らしは、米の他に養蚕などもありましたが冬は出稼ぎ、夏場は土木工事人夫などが主な暮らしの収入源でした。しかし、若い担い手がなく先の見えない状況下での暮らしには厳しいものがありました。
 又、時代と共に若者が村を離れて都会に流れる傾向と重なるように昭和40年代に国の減反調整で、強制的に米の作付けを減らされる頃から毎年村のあちこちで
「今年は、あこんしょも出ていぎゃるそうだねぇ」
 と言う会話が村じゅうを駆け巡ったものでした。
 そんな時に高柳町が「全国過疎地域緊急対策振興指定町」となり、「高柳町過疎地域緊急借置法制定」「高柳町過疎地域振興計画」と言う政策話が村内を飛び交いました。
 そんな頃のある日、突然祖父が
 「こういうご時世になったんでは出るなら早めにでないと出たくてもでられなくなるすけネラ!出るがんだけら俺も行くから早い方がいいなえ」
 と言ってくれました。私達にとっては子供が就学前であり願ってもない時期で、有り難い祖父の決断によって、その年の秋時末を最後に故郷を後にしたのでした。
 あの時、80年のくらしの歴史を残して祖父がどんな気持で村を離れる決心をしたのか、そしてあの日どんな想いで故郷に別れを告げ、行き着く先に何を観ていたのだろうかと今でも時々思います。
 以来長い年月が経ちましたが、混沌とした社会情勢や環境問題の中で「今はこんげな時代だが、いつか又百姓が見直される時が必ず来る」と言い残した祖父の言葉を思い出します。そして、失われてゆく故郷と田畑が、先人の魂と共にいつか甦る日が来る夢や希望を歴史の流れに託さずにはいられません。