堀りっ子衆とドヨウがき
                             田辺雄司
 私の子どもの頃〔1930頃〕は、お盆が終わると近所の村から「堀り子衆」と呼ばれる人達が8人ほど雨の日も風の日もやって来て秋祭り〔9月15日〕の前日まで田堀り作業に精を出したものでした。
 田堀りは2人1組で太い棒で山を削った土を入れたモッコを担ぎ沢や窪地に運んで埋め立てるのでした。
作業をするどの人を見ても屈強な体で肩や腕は筋骨隆々で日焼けで黒光りのするような体をしていました。
 お茶の時には、母が茶釜にタクアンを鉢に入れて茶うけに出すと皆が美味い美味いとコリコリと食べるのでした。そして、賑やかに喋って笑い時間になるとサッと一斉に立ち上がり作業に取りかかるのでした。
 こうして毎日作業を続けて十五夜祭りの前日の夕方には、私の家で濁り酒を大きな燗鍋で温めて大きなお椀で飲んでもらい労をねぎらうのでした。その時に、父は親方にみんなの給金のお札を板の間に並べて支払うのでした。
 その夜は、みんなが賑やかに酒を沢山飲んで「また、でんな〔来年〕もよろしくおねがえします」などと言ってブラ提灯を下げて夜道を帰って行くのでした。
 さて、こうして堀り子衆から平らにして畔土を盛ってもらった場所は一冬雪の下にして翌年の田植えが終わると新田に仕上げる作業に取りかかるのでした。
 まず、畔の部分は鍬や手で土を台形に足で踏みつけながら整えるのでした。
 こうして畔全体の形ができあがりますと6尺おきに長さ1尺ほどの杭を一定の高さに打ち、落とし板を使って水平を測るのでした。その方法は下図のように一枚の落とし板に直角の線を引いて、その始点に釘を打ってそこから丈夫な細い糸に錘をつけて杭の上に置いて測るのでした。
 こうして高い所は削り取り低い所には土を盛って畔の高さを水平にするのでした。この作業が終わるといよいよ畔しめに取りかかります。畔しめ〔水漏れしないように土を圧縮する〕は、絞める場所にムシロを敷いてケヤキの厚い板で作った平らなアゼシメギネで力一杯叩くのでした。
 また、田の内側に面した畔の立ち上がり部分は1尺〔約30p〕ほど溝状に掘りさげ畔側を餅搗き杵と同形の杵で叩いてしめるのでした。これらの作業に4〜5畝の広さの田一枚で2〜3日かかりました。
 それが終わりますと,全員が大きな土方鍬で田の中を深く耕すのでした。その作業が済むと、ちょうど梅雨の時期ですので沢の水を引き込んで水を吸った土塊を更に細かく砕き水と合わせます。この仕事を「水合わせ」と呼んでおりました。
 そして、この水合わせが終わりますといよいよ、ドヨウがきです。カマスムシロを二つ折りにして両端をコデナワで縫い合わせたものの中に土を入れ土タワラをつくります。そして、縄ではすぐ切れますのでマンサクコナラ、ネコヤナギなどねばりのある木で土タワラの両端と真ん中の3カ所をがっちりと結びスベナワを3本縒りの引き綱を両端に取り付けて1本の引き縄に4人ほどつき、1人は土タワラを上から押して田の中を引き回して土を細かく泥状にねってそこから水が漏れないようにするのでした。
 ドヨウがきは一回やる毎に「階段打ち」といって更にどろが田の底土を耕し、ドヨウがきを繰り返して3〜4回ほどやったものでした。石黒の土質は「ゴウラ土」と呼び堅い泥岩の塊が混じるため階段打ちも容易な作業ではありませんでした。こうして、少し広い田は一枚に2日ほどかかりようやくドヨウがきが終わると村の女衆を2,3人頼んで田植えをするのでした。新田の田植えは大抵6月の末でした。田植えをしてみますと、未だ泥土が新しいために堅い土が混じり指先に苗をもって簡単に差し込むわけには行かず手間どったものでした。
 また、新田に植えた稲の品種は味はよくないのですが病虫害につよく成長のよい「新5号」という稲が多かったことを憶えています。

         
どよ〔土タワラ〕と畔の高低測定板

文・図 田辺雄司 〔居谷在住〕