ワラ仕事
                         田辺雄司
  イネの始末が終り、うすひき(もみすり)、粉ひきなどがすべて終わると牛馬の餌にする干し草刈りを、押し切りを使って2日間ほどやるのでした。夏の暑い頃刈ってよく乾かした草を大天井(茅葺きの屋根裏)から下ろして、ワラと一緒に切るのでした。
押し切り

 押し切りは、ウスを逆さまにして据え付けて作業するなど腰が痛くならない工夫をしたものです。しかし、すごいホコリがたつのは仕方なく我慢しなければなりません。
 切り刻んだワラと干し草は雁木の落とし板とデー(客間)の雨戸の間に踏み込むようにしてぎっしり詰めて保存しました。また、クズのツルや豆ガラ(豆サヤ)なども切って混ぜたものでした。
 そして、馬のエサ餌には、毎食、に山盛りに一杯カイバ桶に入れて、茶釜の湯をかけて干し草を柔らかくして、熱いので食後に茶碗を洗った水をかけて食べさせるのでした。
 この仕事が終わると今度はワラスグリです。あらかじめよく乾燥した良質のワラをわら細工用として区別しておきました。よいワラは束の先端を縛って他のワラと区別しておきます。ワラスグリは指では、数が多いので出来ませんので熊手という5本の指に似た道具を作りそれを使ってすぐりました。
 ワラスグリが、終わるとワラたたきが始まります。父はヨコヅツでワラを回しながら叩き、母はサイヅチといって柄の長いツチで叩くのでしたが、私たちがワラ回しを手伝うと父もサイヅチで叩くのでした。回し手さえいればサイヅチのほうが効率がよかったのです。
 こうして、叩くのですが、すぐに使用するわらは充分柔らかくして、4、5日後に使うワラは半分くらいの柔らかさで止めておきました。柔らかく叩いても日数が過ぎると「生返る」と言ってかたくなってしまうからでした。
 後で使うワラはしっかりと2、3ヶ所をかたく結わえてムシロなどをかけて少しでもかたくなるのを防いだものでした。
 まず、カンジキをつくり、カンジキ用のワラグツ(大きめのもの)を数足つくりました。みちつけ(雪を踏んで道をつける作業)用のワラグツでみちつけ時のみに使いました。使った後は火だなの上に上げて乾かしておきました。また、カンジキもいつでもはいて外にでられるように3足くらいは火だなの上に上げて置いたものです。
 正月前は、その他、ぞうりなどを作るだけで後は正月の準備作業に取りかかりました。ススハキをはじめ正月前にしなければならない沢山の仕事があったからです。
 祖母はナベやカマの底の炭取りをしていたものでした。外にいくつものナベを持ってでて包丁のこわれたものを使ってカリカリと音を立てて張り付いたようになっている炭を取り去るのです。その音が逆さにしたナベに共鳴して意外に大きな音がしたものでした。いくつものナベがあり手間取るので、「ああ、ちべてぇ」などと言いながら途中に囲炉裏にやってきて足をいれて杉っぱを燃やして、熱いお茶をのでからまた外へでてカリカリと炭取りをするのでした。
 正月になると特に大正月(元旦から14日まで)には年始客が来たり年始に出かけたりで大したワラ仕事はできませんでしたが、小正月、結局は二十日正月を終えてから、本格的にワラ仕事が始まるのでした。 作ったものは、ミノニナワスッペイなどいろいろでした。この頃から少しずつ日が長くなるのが感じられ「日がのびて、いいあんべえだ」などと言いながら仕事にせいをだしたものでした。夜なべも家族でやったもので、父はワラ仕事をし、祖母は(苧)を爪で細く割いてつなぎあわせて糸にしてオオケという桶のなかに入れていました。母は主に着物などの繕い物をしていました。
ミノとニナワ(矢澤清吉氏製作)

 ワラ仕事の最後は背負いかごを作りました。柳の枝やヤマモミジの木を曲げて骨組みをつくり、まわりを細いナワやアケビのツルで細かく編んでつくるのでした。
 こうして、3月に入ると雪も降り止み、マンサクが咲き出すころとなり、作ったわら製品の雪さらしをするかたわら、そろそろ春の苗代の雪消しやボイ切りの準備をするのでした。