●読解メモ
本サイトの近世歴史年表を見ると
天保4年 |
〇天保の飢饉、洪水と冷害で各地で一揆打ちこわし頻発。
〇山中村、不熟安石代願いを出す。
〇栃ケ原村、上納延期願いを出す。 |
天保5年 |
〇漆島、荻ノ島、栃ケ原、門出の4カ村、村囲い米の融通願いを出す。 |
天保7年 |
〇栃ケ原、花坂地すべり約1町歩
〇飢餓救済のため、広済寺20世孝道祖順和尚は施米施薬をなし、遠く石黒村まで慈悲の手を伸ばす。 |
天保8年 |
〇生田万が柏崎陣屋を襲い自刃(生田万の乱) |
天保9年 |
〇佐渡一国騒動発生、高田藩と佐渡奉行一揆鎮圧のために渡海。 |
等の記載がある。
また、天保10年には、水害や地滑りによる農地や屋敷の被害についての「小損地御改書上帳(石黒村)」が見られる。
そもそも、天保は初年より天候不順であり、特に4~6年と不作が続き、翌7~8年にかけては稀に見る全国的な大凶作となった。人々は山菜を食べつくし、藁まで食べる始末であった。筆者が祖母から子どもの頃の聞いた話では、その藁も食べつくし、東頸城地方のある村では、敷ムシロの果てまで食べたと伝え聞いた、とのことであった。
天保飢饉は特に奥羽地方では深刻を極め、餓死と栄養不足からの疫病死者の数は20~30万人に及んだと伝えられる。
私たちの郷土柏崎での生田万の乱の史実が、今にその時の惨状を伝えている。
また、本古文書の、高がカボチャ1個盗み取ったことで、村中から糾弾されるという騒動も、当時の状況の一端を物語っているのではなかろうか。
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読み下し・用語解説・読解メモ文責 大橋寿一郎 |
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