ド(農業用水池)
                               田辺雄司 
 私が小学校4、5年の頃、学校では田植え休みがありました。その間は朝から暗くなるまで田かき馬の鼻っとりをさせられました。
 私の家の田は家のすぐ上に小さな田が10枚ほどありましたがほとんどが投げ鍬田(田の畔で田打ちが出来るほど小さい田)でした。
 そこから少し上りますと東頸城郡との郡堺の嶺があり、その向こうの隣村は松代町の小貫集落でした。この嶺の近くにもこれまた細長い田やヒョウタン形の小さな田が5、6枚ありました。この辺の田はみな泥深く常に水は満杯に張ってありましたから鼻っとりの私たち子どもは腰まで水があるのでまるで水泳ぎのような有様でした。 また田の近くには所々に横井戸があり少しずつでしたが水がでていて田にひきこまれていました。高い所にある田はこのように水が不足しがちでしたから常に水を溜めておいたのでした。
 また、それらの田より高い所に縦15m、横7mほどのド(農業用水池)が掘られてありました。今でも、放棄された池もありますが高い場所の多くの田場所には一番上にドが見られます。
 このドは湧水と雨水を利用したもので、田掘りと同様「掘りっこ衆」を大勢頼んで掘り起こした土を周りに積みあげて高い畔を作ったとのことでした。畔作りはモッコで運んで積み上げた土をアゼシメで叩いてしめ、更にその上に土を積んでアゼシメで叩いてしめて深さ3mほどのドが出来上がるのでした。
 私たちが子どもの頃にはドの水の水面にはヒシの葉が沢山浮いていました。秋になりますと、禁じられていたのですが私たちは長い棒を持って行って引き寄せて実だけを採りました。家に帰ると鍋に入れて囲炉裏でゆでて食べるのが楽しみでした。
 また、山ひだの沢に土を選び何年も費やして積み上げて堰堤をつくって用水溜めをつくったと聞いています。これを「土堰堤」と呼んだそうです。土堰堤は畔の幅が随分広く、畔には背の低いハンノキ(ミヤマカワラハンノキ)が植えてありました。私たちはよくこのドで夏に泳いだものでしたが、泳ぎの練習をするときにはこの木につかまってやったものでした。しかし、ドでの水泳は禁止されていたので持ち主に見つかると随分と叱られたものでした。
 今でもその場所に行くと子ども時代のことが色々と思いだされます。
 それから、ドには畔の1か所に「尺八」と呼ばれた下図のような仕掛けが埋められており田に入れる水の調節を行うことが出来ました。

文・図 田辺雄司(居谷在住)