大正の頃の村の農業
                             大橋英一
 3月から4月になると晴れた日が多くなるので、早く雪が消えるように灰を田に散布した。灰は、大きな囲炉裏やかまどや風呂で薪や木の枝、すぎの葉や稲わら、籾殻までを一年中燃やしたのでたくさんあった。
 それでも雪が消えて田の「畔ぬり」が出来るのは5月からであった。畔塗りは田の水が漏れないように、畔の表面の去年塗った土をはいで、新たな田の泥土を塗る仕事であった。
 その前に、特に早く雪の消える田で稲の苗を育てる「苗代」を作る。短冊形の幅90cmの床を、約30cm間隔に並列して作った。種籾をそこに手で平均になるようにばら撒く。4〜5日で子葉が出て、根が泥の中に伸びて安定する。播く量や潅水の駆け引きが難しい仕事だから何処の家でも主人が行った。

 畔塗りが終わると、元肥に堆肥や人馬の糞尿などを馬で運んで散布してから田の土を備中鍬〔三本鍬万能〕で掘り起こした。これを「田打ち」と称した。
 今なら耕運機で1日で出来るものを、当時は大勢の男衆が幾日も鍬を振り上げて耕したのだから大変な重労働であった。
 田打ちをした田は、水を入れて馬に馬鍬〔まんが〕を曳かせて、耕した土を更に砕いて泥土にして表面を平らにならした。これを「田代かき-田かき」と言った。馬鍬は約1mの潅木に20cmほどの鉄の歯を10本内外植えて、これを鳥居形の柄をつけたものである。〔馬鍬の造り〕この馬鍬を使うのも男の仕事であった。馬の下あごに細い棒を付けてそれを持って馬を誘導したが、それは子どもや女が担当した。私も時々手伝わされたが、一日中馬と歩調を合わせて泥田のなかを歩くのだから子どもには大儀であった。〔→子どもの暮らし
 これで田植えの準備はできた。その頃は6月の初めで、苗代の苗も植えられる大きさに生長していた。田には稲の苗を植えることを「田植え」という。田植えは若い女衆が主役であった。苗代の苗をとって一握りほどを束ねるのも女の仕事であったし、それを植える田まで運んで、田の中に適当に投げ込むのも女や子どもが使われたから、田植えは男も女も子どもも家族総動員で、そのほか集落の人たちも手伝いあったので、お祭り騒ぎのようににぎやかであった。
田植え枠

 昼飯にはホオの若葉に黄な粉を敷いて、その中にご飯を入れて握り飯をつくって食べたが、ホオの香りがご飯に移っておいしかった〔→参照〕。また、重箱に牡丹餅やご馳走を入れて持ってきていたので昼飯を食べるのが楽しみであった。田植えの時期に合わせて、小学校にも農繁期休業があったから子どもも毎日手伝いをした。
 田植えでは、前後左右真っ直ぐに、同じ間隔に植えることは目測では困難なので、植える前に長さ3mくらいの8角形の田植え定規〔上写真〕を転がして、田の表面に正方形の印をつけた。植える人は十文字の交点に植えれば、誰が植えても縦じまの間隔は揃ったが、山の斜面の形の曲がった小さな棚田では、田植え定規が使えないから目見当で縦横真っ直ぐにうえるのに苦労した。
 田植えが終われば田の仕事は一段落したが、畑の仕事が待っていた。野菜は全部自給自足なのだから、豆類、根菜類、菜類、ナスや瓜類などみんな作らなければならなかった。ナスやキュウリ、スイカ、カボチャなどは隠居した爺さんや婆さんが家の近くの畑で作ることもあったが、キュウリやササゲのツルが巻きつく木の枝〔シバ〕を立ててやらなければならなかったし、身体を休める暇もなかった。
シバ〔つる性の野菜を巻きつかせる木〕

 一応、畑の仕事が終わると、田に植えた稲が活着し、分けつして大きな株に生長したが、雑草が生えるので除去しなければならない。これを「田の草取り」と呼んだ。素手で指を使って稲株と稲株の間の泥をかき回して雑草を抜いては埋めるのだが、腰を曲げて一日中田の中を這い回る仕事だから腰の痛い難儀の仕事であった。
 一番草取りが終わると続いて二番草取り、熱心な農家は三番草取りまでした。その間に追い肥えとして人馬の糞尿を播いたり、田の周りの草を刈ったり、近くの山の草を刈ってきて堆肥作りをしたりした。 灌漑用水に苦労することも多かったが、一番神経を使ったのは、イモチ病などの病害の予防であった。絶えず田の中を見まわって、病害の稲を早く見つけて伝染するものを防除しなければならなかった。また、株が分けつして稲が大きくなる頃には、ウンカやニカメチュウ、イナゴなどの被害にも悩まされた。
 私の村は、11月の半ばになると雪が降るから、感光性より乾湿性の大きい品種、すなわち8月の高温に感じて穂が出る早稲種を育てていたので、9月から10月は大変に忙しい時期であった。
ハサ

 「稲刈り」を始める前に稲干し場に、ハサを作らればならない。ハサは日当たりのよい林縁木や立ち木に、立ち木の間隔が広いところには杉の丸太棒を立てて、それに太い藁縄を約50cm間隔にしばりつけながら横に張って、なお補強縄を縦にも張ったのである。横縄は8〜9段から最高10段ぐらい張ることもあった。
 稲刈りは実った稲を根際から鎌で刈って、両方の手のひらで握れるくらいの大きさの束にまとめた。これを運搬するときは取り扱いの便宜から10束をひとまとめにして、人が背負ったり馬で運んだ。ハサの所に運んだ稲は、ハサの一番したの段の横縄から順々に上段へと1束の稲を前後に開いて掛けて、穂を乾燥させた。これを「ハサ掛け」と言った。ハサかけには稲束をハサに掛ける人と、稲束を渡す人はキャッチボール式に稲束を投げて渡した。
 場所や天気にもよるが、稲は1週間から10日くらいで乾燥した。乾いた稲束はハサの上段から順番に降ろして、背負ったり馬で運んで家の中に入れるのだが、家の中に入りきれない稲束は庭に穂を内側にして円形に3mほどの高さにつんで屋根をカヤで覆った。これを「稲にお」と呼んだ。
 これで稲作の屋外の仕事は終了したのだか、これから米にするまでの屋内の仕事に大変な手間がかかった。
ハサ場から屋内に運んできた稲は「千歯」で脱穀した。千歯は木の枠に幅15cm、長さ4cmほどの鉄片を20本くらい櫛の歯のように植え込んだもので、これを立てて歯の間に稲を入れて穂をしごいて籾を落とした。一度に数十本づつしごくのだから、ものすごく根気と手間ががるので、朝の5時ごろから夜の10ごろまで毎日働き続けた。これを「いねこき」と言った。
 しごいた籾は籾摺りを回転して籾殻を取り除いた。これを「うすひき」と言った。摺り臼は上下2個の円筒形の臼で、臼の外側は竹または木で作り、これに粘土に食塩を混ぜて詰め、両臼の摩擦面に樫の板の歯を植えつけたもので、上の臼に木の棒を指して3〜4人で上の臼を回した。
 摺り臼で米と籾殻を分けたものは、トウミで米から籾殻や塵芥を除去した。トウミは鼓胴の中に翼車があって、上部の漏斗状の受け入れ口から摺り臼から出た物を入れて翼車を回すと、その風力で米は重いから足元に近い出口から、籾殻は軽いからやや離れた後ろの出口から、そして塵芥はトウミの外へ飛び出るので、米と籾殻を選別できた。
 トウミで籾殻を除去した米には未熟米や割れ米が混じっているので、それを除くのに選穀通を使った。選穀通は傾斜をつけた篩〔ふるい〕で、上から米を流すと未熟米や割れ米は、小さいから途中で篩の目を潜って落ちてしまい、良質な米だけが篩の上を流れて下にたまった。
 これを俵に詰めて売るのであるが、脱穀から売る米にするまでに、千歯、摺り臼、唐箕、選穀通などの道具を使うのであるが、いずれも至極簡単な器具であるが、使い方に熟練が要ったし、仕事も手間がかかった。
 脱穀から売る米にするまでの仕事が終了するのは1月の末であった。それで正月を一ヶ月遅らせて2月1日を元旦として2月に正月の行事を行った。

   
大橋英一著〔大野出身〕「95年間の旅路」から抜粋