備 考
本書には年月日は見られないが、庄屋 、組頭、百姓代の氏名と庄屋見習いの十五郎の名前から推察するに慶応2年(1867年)の文書である事が分かる。また、当時の石黒村の家数は165軒、人口は1027人であることが分かる。
そして、とくに注目したいことは高持は僅か29軒、つまり無高(無田)が136軒で、2割ほどであることである。江戸時代の村では、無高百姓は高持百姓と異なり、一人前の百姓とみられず、村政への参加が許されなかった。
ここに記されている無田つまり無高百姓の仕分け基準が如何ほどであったかは分からないが、無高百姓の米の収穫量は1斗に満たない量であったに違いない。こうした村の実態は、時代とともに若干の変化はあったにしても、昭和20年(1945年)の敗戦直後に占領軍によって断行された農地解放まで続いた。
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