覚     田辺重順家文書  
  高持高持ち百姓


無田無高


人別


百姓代


組頭


〇見習→庄屋見習いn


庄屋


石黒村 
  
      覚
 一 家数百六五軒 内 二十九軒  高持
 一 人別千二拾七人  百三十六軒 無田
      内
     五百十六人 男
     五百十一人 女
 右は当寅人別(当村家数)書面の通りに

 御座候 以上
   寅三月  刈羽郡石黒村
          百姓代 助九郎
          組頭  宇左衛門
          見習  十五郎
          庄屋  重左衛門
   
                     備   考
 本書には年月日は見られないが、庄屋 、組頭、百姓代の氏名と庄屋見習いの十五
郎の名前から推察するに慶応2年(1867年)の文書である事が分かる。また、当時の石黒村の家数は165軒、人口は1027人であることが分かる。
 そして、とくに注目したいことは高持は僅か29軒、つまり無高(無田)が136軒で、2割ほどであることである。江戸時代の村では、無高百姓は高持百姓と異なり、一人前の百姓とみられず、村政への参加が許されなかった。
 ここに記されている無田つまり無高百姓の仕分け基準が如何ほどであったかは分からないが、無高百姓の米の収穫量は1斗に満たない量であったに違いない。こうした村の実態は、時代とともに若干の変化はあったにしても、昭和20年(1945年)の敗戦直後に占領軍によって断行された農地解放まで続いた。

 
 
読み下し・備考・用語解説文責 大橋寿一郎