「山中村庄屋文書解読参照資料」(筆者編)の天保14年欄には「郡中割賦-計5冊」が見られる。
本文書はこの郡中割賦帳を作成するための大図と検見の費用を山室、大沢、岡野町、高尾、山中の5カ村の分担の明細を記したものである。
但し、実際に記載の数値に当たってみると明細と合計が一致しないのは、岡野町分が記載されていないためである。本文書が岡野町村の控えであることから自村の項目は省略したものと見える。
さて、この文書から読み取りたいと思ったことは、一見、合理的で農民には有利に思われる検見法であったが実際には定免法の方がより多く受け入れられた訳についてである。
つまり、農民にとって検見に当たって役人の応対の苦労とそれに伴う出費などがあったことが大きな原因の一つであったであろうと想われたからである。
果たして、本書に記された諸費用の合計は二十両近い金額である。足軽、子ども下女までにお金を与えている。おそらく、村に役人が検見にやって来るとなると、この他に、道路修理から宿舎や饗応の準備など現代では計り知れない苦労があったことは想像できる。その上、検見が済むまで刈り取りができないなどの不便性もあった。
時代は大いに下ってからだが、筆者が子どもの頃、昭和20年(1945)代に、秋の米の収穫が終わり供出米の出荷を控えたころに米の検査員が村々を回った。それを迎える戦々恐々とでも言いたい村人たちの様子と検査員の横柄な態度を忘れることはできない。
饗応の場となった筆者の家の座敷で床柱を背にふんぞり返って酒を飲み、果ては芸者まで要求した赤ら顔の検査員の姿を今も忘れることが出来ない。
近世から昭和前期まで生き残った悪しき慣習とでも言おうか。いや、法の規制なくしては何時の時代にも発生蔓延する人間社会のごく自然な成り行きとも言えよう。
(文責 編集会 大橋寿一郎) |
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