過疎のこと
                            田辺雄司

 「よぉう、達者でいたかい。あんまり大雪でなくてよかったのぉ。こんげぇに家が減っても、おさん達が、居るがんだけりゃ、おらぁも急いで村を出ることもなかったがんにのう。あんときは、町から早く出るように言われたすけのう。やっぱし、生まれた村はいいのぉ。」
 5月の連休に久方ぶりに居谷にやってきた元住民の言葉である。
 村にやって来ると、真っ先に自分の屋敷跡にいってみる。「おら屋敷もこんげぇに草ぼうぼうになってしまって。ほんに、先祖にもうしわけねぇのう」などと涙ぐんでいる人もいる。
残雪と新緑の故郷居谷集落

 昔から、18軒を維持してきた居谷集落に急激な過疎をもたらしたのは、皮肉なことに、昭和45年にが制定された「過疎地域緊急措置法」であった。この法律により同年、高柳町は「全国過疎地域振興指定町」となる。それを受けて、高柳町は「高柳町過疎地域振興計画」をたて、翌年3月に小集落の移転計画を議決した。小集落の町内移転によって生活条件の向上を図り町の活性化を図ることが目的であった。
 そして、昭和46年に中後、後谷集落の集落移転を行い、翌年の47年には白倉の集団移転を実施した。そして、次には居谷集落の移転を計画して住民との話合いを持って実施を進めた。しかし、私たち、約半数の村人はあくまでも生まれ故郷の村で住みたいという理由で離村をすることを断った。だが、このときに村の戸数は一挙に半減してしまったのだった。それも、離村者のほとんどは町外や県外の子どもの元に移転したのだった。
 当時、村を出て行くということは並大抵のことではなかった。何百年と続いた家を棄てて住み慣れた村を出て行くのだから当然のことである。
 交通の事情もあったであろうが夜中に村を出て行く人もいた。数日後に届いた挨拶状には「お別れの挨拶もしないで、こっそり出て来て申し訳ありません。村を出るときにお会いすれば泣けて泣けてしようがないだろうと思いこっそりと出てきました。さんざんお世話様になっていながら本当に申し訳ありません」というような文章が書かれていた。涙なしには、書く人も書けず読む人も読めない切ない手紙であった。
 先月(11月)も他県に引っ越した人から電話があった。電話は、
「新潟の山沿いは雪との天気予報だども、天気はなじょうですね。今頃になると山に入って山芋やトコロを掘ったことを思い出していますいね。今、こちらで少し畑を借りて野菜を作っていますがナスやトマトをもぎ取る時には必ず居谷に住んでいた頃のことが思い出されてなりませんて」というような言葉であった。

 今にして思えば、何れにしても過疎は進んでいたであろうし、また、急激に過疎を進めてしまった法律や施策も地域の振興を目ざしたものであったことも分かる。しかし、当事者である小集落の住民との充分な話し合いがなされ、当時の住民の気持ちが本当に理解された上での施策であったかどうかは今でも疑問に思われてならない。