カケスのものまねの思い出 子どもの頃に家の周りで見た中型の野鳥といえば、オオアカゲラやアカショウビン、ヒヨドリ、そしてカケスがあげられる。 中でも、カケスは「ジャ、ジャ、ジャ-」と聞える濁った騒々しい声で普段は鳴いていたが時には、ネコの鳴き声を実に上手にまねたものであった。それも夕方、あたりが薄暗くなるころに家のまえの杉の樹の高い所で何度も鳴いて見せた。時には、赤ん坊の鳴き声の真似も何度か聞いたことがある。当時は、ネズミ対策で大抵の家にネコが飼われていたこと、また戦後のベビーブーム(1947~49-下付記参照)の頃で多くの家から赤ん坊の泣き声がした時代でもあった。時には、少し間をおいてネコと赤ん坊の両方を聞かせることもあった。 また、それらしいカラスの鳴き声もしたが、これは本物が時々鳴いていたのでカケスとは断言はできない。 ところで、カケスの赤ん坊の泣き声で、不気味な思いをさせられた忘れられない記憶がある。 それは、小学校5年生の時だったと思うが同級生の一人が黄疸に罹り数週間欠席したため、その子の見舞いにクラスの代表で先生に連れられて見舞いに訪れた日の帰りのことである。 その子の家は学校より3㎞余り離れた集落にあり、土曜日の午後から出かけた(徒歩)ため学校のある上石黒に帰ってきたのは夕方6時頃で、あたりは暗くなりつつあった。私の家は下石黒で、そこから10分ほどの所にあったが、担任の先生は、遅くなったことを私の親に直接伝えたいと思ったらしく私を役場の下の道で待たせて近くあった学校に立ち寄った。私は一人で帰りたかったが断ることもできず道端に立って先生を待つことにした。 その時、私は刻々と闇に覆われていくあたりに、微かに異臭が漂っていることに気が付いた。実は、その日、上石黒で赤ん坊が亡くなり葬式が行なわれ夕方に荼毘に付されたのだった。 上石黒の火葬場は私が立っていた役場下の道からすぐ前の石黒川の向こう側にあった。夕闇の中、目を凝らして見ると煙が立ち上っている所に、ちらちらと赤い炎がみえた。兄弟を幼くして何人も亡くした自分は、荼毘に付されている赤ん坊を哀れに思った。 その時、突然、火葬場に面した川岸の樹の上で赤ん坊の泣き声がした。一瞬自分は背筋に冷たいものを感じた。とはいえ、自分は聞き慣れているのでそれがカケスの仕業であることにすぐに気づいたが、薄気味悪さは去らず、早く先生が来ないかと思った。間もなく「やあ、待たしてごめん」という声が聞こえほっとした。 いつも、楽しみながら聞いていたカケスの物まねも、この時ばかりは、70年経った今も忘れられないほど気味悪く聞こえたのであった。 退職後、時々、石黒の生家で畑や庭づくりで過ごしてきたが、カケスの物まねは一度も聞いたことはない。おそらくその原因は、既にそのころは過疎化(下-備考)が進み、赤ん坊が生まれたこともなく、ネコも集落中で1、2匹いたかどうかという時代であったためであろう。 WEB上の情報によればカケスやインコなどの物まねは、生まれてから数か月以内に覚えないと身に着けることのできない特技だそうである。 文責-大橋寿一郎 |
〇備 考 ※日本では1947年から1949年にベビーブームが起きた。この頃の1カ年の出生数が250万人(当時の新潟県の人口を越える数)を超えており、3年間の合計は約800万人程の出生数となる。とくに、1949年の出生数269万6638人は戦後の統計において過去最多の出生数となつた 。 ※ 実にこのころ(1947年)母校石黒小中学校の生徒児童生徒数は378人であった。しかし、1994年には全校生徒9名となり翌年閉校となった。 ※後にこの世代を「団塊の世代」と呼び、2025年には約2200万人が75歳以上という超高齢化社会が到来することになる。(参考-ウエキペディア) ※ちなみに、その後は少子化が急速に進み2016年の出生数が過去最少の約98万人となったことが分かった。年間の出生数が100万人を割るのは1947年統計開始以来初めてとのことであるという。 (文責-大橋寿一郎) |