稲あげと稲こき
                          田辺雄司
 昔の稲刈りは、彼岸頃から始まるので稲あげも10月に入って天気のよい日の午後から行われることが多かったものです。
 ツナギとムシロを持ってハサ場に行き,ハシゴを掛けてハサのケンダン〔一番上の段〕から稲をはずし下のムシロの上に投げ下ろすのでした。ケンダンの稲は最上段にあるため雨に当たりやすく十分に乾いていないこともあったがそういう場合には別にして置きました。
 稲あげは稲が乾いているため軽かったので2束〔16把〕ずつ束ね、背中に担いで運んだり牛馬の背につけて運んだりしました。
 稲あげには小さい子どもまでかりだされて手伝いましたが、乾燥した稲は特に頸筋などにあたるとチクチクしたことを覚えています。ほんの小さい子どもも2束しばりの稲束を一束せおってせっせと家まで運んだものでした。
 一休みの時は、サツマイモやカボチャの茹でたものとミョウガの味噌漬けを食べてお茶を飲みすぐに仕事を取りかかり夕方まで忙しく働きました。
 子どもの頃は、何回も稲を背負って山から家までを往復するのでくたびれてしまって夕方の石油ランプのホヤ掃除もやりたくないほどでした。
 その日の夜は、運び込んだ稲の脱穀作業でしたので急いで夕飯を食べました。当時はどこの家でも秋は大根や菜っ葉を入れた雑炊でしたが、夕飯には雑炊と団子やアンボなどを食べました。そして休む間もなく稲こき作業に取りかかるのでした。
 その頃は足踏み脱穀機だったので父が稲こきをして、母は脱穀した稲をカゴドオシにかけて籾と未だ穂状になったものや藁ゴミなどを分ける仕事をしていました。そのほか、脱穀機の近くまで稲を運ぶ人、脱穀の終わった稲を束ねる人、カゴドオシに掛けたモミを座敷のタテ〔ムシロを何枚もつないでつくったモミ入れ〕に運ぶ人と、稲こきには人手が多く要りました。モミが一粒ずつにならず枝穂の状態のものは、翌日庭にムシロを敷いてその上に広げてバイで叩いて籾を落としたものです。
 家によっては足踏み脱穀機をハサ場に運んでそこで脱穀する人もいました。ハサから下ろした乾いた稲をすぐに脱穀するのですから籾がよく離れ、ほこりも苦にならず好都合だとのことでした。
 しかし、なんと言っても稲あげは天気に左右される作業であり、仕事の予定が前もって立たず大変でした。昔の人は天気予報もなかったので、自然の様子から長い経験をとおして天気を予測したものでした。たとえば、雨蛙がなくと雨になるとか、蒸し暑いと雨とか、朝、西方に虹がでると夕方から雨などと言い伝えられ、それがよくあたるのに子どもの頃に驚いたものです。
 足踏み脱穀機
 
 天気の状態で家に取り込んだ稲が速やかに脱穀できない年は、家の中いっぱいにあげ稲が積まれることもありました。
 とはいえ、足踏み脱穀機が普及するまでは千歯で脱穀をしていたので、それに比べたならば足踏み脱穀機は画期的な農機具でありました。また脱穀機は稲ばかりではなく豆や小豆、ソバなどの脱穀に使うことが出来ました。今でも私は大豆や小豆などの脱穀に使っています。
 稲こきの今頃の時期になると、当時の脱穀作業を「ガォーンガォーンザーザー」という音と共に思い出します。