春木の思い出
                田辺雄司
 春、3月になると、春木(薪作り)に取りかかるため、大人たちは冬の藁仕事に、夜なべやチャメ仕事(朝飯前の仕事)で精を出しました。そして、藁仕事が終わると春木に取りかかります。
 春木は、一年中囲炉裏や風呂で焚くやボイを作る仕事です。ブナ林に行って一抱えもある木の根本の雪を掘って、その中に入って山鋸でビーコビーコと時々休みながら挽くのでした。1時間も2時間もかかってやっと大きなブナの木は傾き始めるとが切り口に堅い木でつくったクサビを大きな鎚でたたき込みます。すると、木は「バリバリ、ドスーン」という大きな音をたてて雪の上に倒れるのでした。その転ぶ様子をみていると気持ちがスカッとしたものでした。
 大人は、倒れた木をワッツェ(薪)の長さに切るために鋸で印しをつけました。そして、藁を一束持っていって、雪の上に腰を下ろして、その印しをつけた長さにの鋸でビーコビーコと切るのでした。
 午後の中飯時になるとワッパからご飯を出して食べるのでしたが、子どもの私たちもワッパの蓋に分けてもらってブナの枝で箸を作って食べました。水筒などは持っていかず、雪が消えた地面には雪解け水が流れているのでそこに口をあててゴクゴクと飲んだものでした。
 私たちも学校から帰ると小型の鋸で切る手伝いをしたり、ブナの枝で大きなズングリ(独楽)を作ったりして夕方親たちと家に帰るのでした。
 寒い日は残雪が堅く凍ってカリカリになるのでしたが、毎日続けるのでフナの木の幹は玉切り(薪の長さに切り分けること)が終わり、次に順序よく枝の始末をしました。細い枝はボイ(細木の焚き木ぎ)にしました。また、小枝の張り具合のよいやや大きな枝を選んで夕顔などのシバ(支柱)を少し小さめの枝をキュウリやササゲのシバにしました。そのシバを私たちは雪の上を言いつけられた場所によせて置くのでした。
 大人は玉切りが終わると、マサカリで割はじめるのでしたが、径の大きいところは、端の方らクサビを打ち込みながら割っていきました。はじめは大割にしてあとから小割しました。節のところなどどうしても割れない所は樹皮に沿って割れるところまで割り囲炉裏に入る大きさにしてクイゾと呼ぶ丸太の薪としました。母親は、炊事の支度があるので西の雪山に沈む太陽に手を合わせてから、私たちより一足先に家に帰るのでした。
 家に入ると祖父が私に「野郎、山へ行くと腹がへるだろう」なんて言いながら座敷に下がった石油ランプに火を入れるのでした。家の中のあたりがボーと明るくなると、祖父から順番に風呂に入るのでした。私たちは弟や妹と3人でいつも入ったものでした。
 また、毎晩のように分校の先生が湯に入りに来ていて、疲れてコタツなどで寝込んだ自分に「本を読んだか(勉強したか)、怠けているとカンジン(乞食)になるぞ」などと冗談を言ったものでした。
 こうして、薪割りが終わると近くの雪を掘ってニオを積む場所を決めてそこに割った薪を集めて積みました。ニオづくりは台をして2列か3列にきれいに並べて積み上げカヤで屋根をして終わりです。私と母は薪を集めたり、積むのを手伝うのでしたが夕方には立派なニオが出来たものでした。
 ニオ作りが終えた父は、今日はまだ帰るには早いからと川下の苗代の雪堀に行き、すっかり暗くなるころに帰宅したものでした。子供心に大人の仕事の厳しさを感じたものでした。