味噌煮の思い出
                              田辺雄司

 3月に入ると春の気配も感じられ、冬の藁仕事にどこの家でも精を出したものでした。子どもたちも藁たたきで藁をまわすなど仕事を手伝いました。
 この頃になると味噌煮が村の家々で順番に行われました。共同の味噌煮釜を使うから、あらかじめ皆が寄って順番を決めて行ったのでした。
 自分の家の番になると、煮る3日前に豆を水に浸しておきました。そして、味噌煮の当日になると隣の家から味噌煮釜を運びました。
 そして、ニワ〔玄関近くの仕事場〕の一部の床板をはぐり、そこに釜を据えつけました。 
 据え付け方は釜の上に鍋をのせてその上に桶をのせます。たくさんの豆を一度に煮ますので吹きこぼれない様に桶を重ねるのですが鍋と桶の間に隙間があるとまずいので、その隙間に本当の粉餅〔粉とヨモギだけでついた餅〕をまんべんなく詰め込むのでした。その作業が大変でした。餅を焼いて皮をとり、手でよく練ってから鍋と桶の隙間を山盛りになるほどしっかりと詰めて塞いだものでした。 
 それから、水と豆を入れるのですが一回に煮る量は約一斗〔18リットル〕ほどでした。 
 朝に火をたき始めてやっと夕方に、煮た豆を大きな半切〔大きなタライ〕の上に置いた笊に入れます。そして、もう一つ半切を用意しよく水がきれた豆をその中に移して、新しいワラグツをはいた父が踏み潰すのです。踏んだものは取り出してニワに敷いたムシロの上に山にして置きます。それを女衆が子どもの頭ほどの玉に丸めるのでした。
 踏む方も玉にする方も汗だくになっての仕事です。柄の長さが1mもあるシャモジで桶の周りについた潰した豆を落としながらの作業でした。
 味噌煮が始まると昼夜もなく親たちはランプの明かりを頼りにやったものです。味噌煮は2日2晩かかりました。終わると、道具を次の家に運びました。
 それから、丸めた味噌玉がある程度乾き堅くなった頃に、藁で十文字にしばり座敷の天井にあらかじめ取り付けた竿に並べてつるしました。
 味噌玉は5月の下旬までそのままにしておき、田植え仕事の始まる前に下ろして水に浸します。2、3日してから隣同士の母親たちが助け合って4人ほどで包丁で厚さ5mmくらいに切り刻みムシロに広げました。そして、その上に真っ白になるほど塩を振りかけて丁寧に混ぜました。
 それが終わると、いよいよ味噌桶への仕込みです。味噌桶は土蔵の味噌蔵にありましたが、そこに運んでその中に詰めました。そして藁を叩くヨコヅツ〔民具参照〕で叩いて隙間のないように堅くつめこむのでした。
 また、桶にいっぱいになる少し前にダイコンやナスを塩漬けにしておいたものを並べてその上に味噌をしっかりと押し詰めて布をかぶせて味噌作りをようやく終えたものでした。
 昔の味噌は3割塩とか4割塩とか言っていましたが今の味噌に比べて塩辛く、仕込んでから長くねかせたので色も赤かったように思います。

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