地蔵峠の秋−地蔵尊と峠道
       
−前沢潤著 柏崎の史跡今昔から−

 花野を分け登ること1時間。610mの地蔵峠の頂きにたどりついた。午前11時半。そこは十坪ほどの広場で、その右手一段高いところにブナや赤松にかこまれた9尺・2間ほどのお堂があった。傍らの碑によると昭和24年に信者の寄進によるものだという。
 リックを投げ出し、したたり落ちる汗をぬぐいながら、まずもって地蔵尊に詣でることにした。
 お堂の奥の石祠の中に高さ40pほどの石の地蔵尊が安置されていた。拝すると左肩から右腰にかけて斜に傷跡が見られた。
 昔のこと。石黒村の信心深い娘がこの峠でならず者に手込めにされようとした時、尼さんに姿を変えたこの石地蔵が、身代わりになって娘をお救いになったが、その時ならず者から受けた傷跡が残り、それからは袈裟懸け地蔵と呼ばれるようになったという。(深田信四郎先生著、昔の話でありました・第2集)石祠の端に宝永元歴甲申同吉と刻んであった。宝永元年(1704)にこの地蔵尊がここに祀られたというのであろうか。(参照→石黒の伝説)
 宝永元年といえば、浅間山が噴火し、諸国に地震・洪水がつづいた恐ろしい年であったといわれているが、この地蔵尊もそうした不安な世相の中でつくられたものであろう。

 この地蔵峠の細道には、石黒村の苦渋の歴史が刻まれ、この袈裟懸け地蔵の前を大きな時代の変革が通り過ぎていった。
 明和5年(1768)に石黒村組頭重五郎が石黒村庄屋になるまでは、石黒村は庄屋のいない村で、同じ上々郷の女谷庄屋の差配をうけ、むごい年貢の取り立てや、きびしい掟がこの地蔵峠を越えて否応なしに石黒村に覆いかぶさっていった。いわばこの峠は厳しい政治支配の道でもあった。(→参照 石黒の歴史)
 そうした影はその後も尾を引いて、明治初年の学制領布においてさえ、石黒校は女谷校を中心とする第4中学区14番小学校の付属校として発足するしかなかった。
 また、この峠はもろもろの生活物資を運ぶ生活の道でもあった。特に長い冬期間の生活を支える塩を運び込む塩の道でもあった。
それは、ただ石黒村だけでなく松代、松之山、嶺、田麦といった東頸城の人たちにとっても同様であった。
 降雪をひかえた頃のうそ寒いこの峠道は、柏崎から塩を背にした人や馬の列が続いたものだという。さらにこの峠道は、寺院を持たない石黒村の人たちにとって遠い北条の西方寺などの菩提寺に春、秋祖先の供養するためにきまって通らねばならない道であった。

 良きにつけ悪しきにつけ地蔵峠は、石黒村の人たちの生活と結びついていた。この峠に地蔵尊を祀って、峠越えの無事を祈り、悪病、災害が村に及ぶことのないよう地蔵尊に願った心もそこから生まれた。
 また、この難渋な峠道では、恐ろしい遭難の悲劇も繰り返されたことであろう。そうした霊を慰めるための地蔵尊でもあったことであろう。
 こうしたもろもろの地蔵尊信仰は、いつの間にか難病奇病の治癒にも霊験あらたかな地蔵尊として、信心されるようにもなっていった。特に下半身の不自由のな病には霊妙なお救いがあると固く信じられていた。

 地蔵尊を詣で、昼飯をすますと、家内はすっかり元気を取り戻した。まことに地蔵尊のあらかた御利益であった。
 午後1時近くに帰途につく。地蔵峠の頂きが郡市の境界である。道は折居に向かって下る一方である。
 怖ろしい蛇はいないが、やたらに張りめぐらされている蜘蛛の巣を、小竹の棒で払い払い道を急いだ。
 道のべの秋草の花に埋まるように立つ石仏に手を合わせたり、秋日をすかして見る透き通るようなケヤキ林の紅葉に仏の世界の荘厳さを思ったりした。かつて石黒村の人々がこの峠で味わった惨たらしさも、今は遠い忘却の彼方に押し流されてむしろそこはさわやかな秋風にも似た淡い追憶と感傷があるだけであった。
 1時間ほどで折居に着いた。振り仰ぐ地蔵峠は秋の日の中に昔のままの静かなたたずまいを見せていた。
(昭和54年−1979頃の著作)