畔(あぜ)豆つけ用具
 1950年代までは、石黒では水田の畔には、どこの家でも大豆を栽培した。畔の真ん中に一列に30pほどの間隔で植えた。→参考画像
 石黒の水田の殆どは棚田であり、それも2〜3畝(1畝-約1a)の田がほとんどであったから畔の長さの延長は相當のものであった。畦豆だけで数俵の大豆を収穫する家もあった。
 畦豆の種まきは田植えが終わった頃におこなったが、まず、上の写真のような用具で畔に穴を同間隔に空けて行ってそこに2〜3個の豆を入れてその上にもみ燻炭やもみ殻などをいれて置く(キジバトの被害を防ぐためでもあった)。
 種豆を入れる小さな篭を腰にぶら下げて行う人も見られた。
 上の写真のような用具を使わず適当な生木や鍬の柄の折れたもの等を使って穴をあけることもあった。
 田の畔なので良く成長したが、畦草取りに手間がかかった。特に幼苗の内は周りの雑草と一緒に引き抜いてしまうこともあり、厄介な仕事であった。
 筆者の子どもの頃は、夏休みの子どもの仕事は畦草取りが主であった。当時の親は、「涼しいうちに勉強を」ではなく「涼しいうちに草取りを」と口やかましく言ったものである。