回 文  大橋正男文書   用語の手引き
  自坊



門徒


〇山分→寺で山間部の檀家衆を指す言葉 
平場は里方。



大橋修英→下石黒の檀家世話人-大橋正男文家書の正男家の先祖


〇本山事件→
下参考文資料参照

 拝啓
 予(かね)て申し上げ置き候通り本
 日 自坊において門徒総
 会相開き申し候處 山分
 よりは居谷 寄合の外御出席これなく候
 右協議の結果を御披
 露かたがた来る十二日当
 方より下石黒村大橋
 修英宅まで出頭申すべく
 候条万障御差し繰り当日
 午前十時に下石黒まで
 ご光来なと下され度願い上げ候
 最も今回の本山事件は未曾有の大事
 (次頁に表示)
 (右同)
  
   〇40銭:→現在(2017)の5000円程度であろう


西方寺


〇松沢周平→嶺村(東頸城郡₋現在上越市)の西方寺世話人


回文


  (前頁に表示)
 (右同)
 件にして殊に至急を
 要する場合に御座候上は
 十二日には各村各戸に付き金
 四十銭くらいの見積もりを以って
 御持参下され度くれぐれも
 申し上げ候也
  三十八年四月六日 西方寺
   小林安次郎様
   大橋誠良様
   松沢周平様
   小山半兵衛様
   大橋常吉様
   大橋修英様
 この回文順次至急御回し
 下さるべく候
 
           本文書 西方寺廻文の背景を探る

明治35年(1902年)、東本願は生命保険事業の破たん等で莫大な借金を抱え込んでいた。当の東本願寺はもとより利害関係ある商人たちも連署して政府要人の井上薫に救済を嘆願した。仕方なく井上はこれを引き受け、資料を提出させ徹底的にその原因を調査した。そして、その原因が東本願寺の放漫財政であることを知ると、井上は片山繁雄を伴い京都の東本願寺に出向いた。京都の停車場に下り立つと、東本願寺が迎えに用意した豪華な馬車を見て、 井上は、『人に財政の整理を頼まんとする者が、何の余裕あってかかる贅沢を、敢えてするとか』と言って、用意した馬車には乗らず、あえて辻馬車に乗って東本願寺に行ったいう。
 そして朝の9時より夕の6時まで当事者より財政の情況を聞き、やがて出された豪華な食膳を見るや、ついに癇癪球が破裂し、『これは皆善男善女が寄進したる粒粒辛苦の物ではないか、これを思えば、かかる馳走が喉に通るか!』と罵倒したと伝えられる。後に井上が、取引銀行を鴻池銀行1行に定めて利子の軽減・担保以上の借入を決議して実行した事はこの人物なればこそ出来た事であったといわれている。

 本文書、西方寺の廻文は、「本山の今回の事件は未曾有の事件にして・・」また、「各戸40銭(現5千円程か)位の見積もりを以って持参くだされたく・・・」などの記載が見られる。付は明治(宛名名から)38年とあるが、この年の6月、財政紊乱問題で石川舜台前宗務総長は除名の上、僧籍を剥奪されている。本廻章がこの事件と関わりがあるかどうか興味のあるところである。また、菩提寺からの連絡を受けて居谷以外の檀家が誰も集まらなかったということも少なからず気にかかることだ。  
(参考文献 Wikipedia・他)

 
読み下し・用語手引き・最下段感想文文責 大橋寿一郎