本文書 西方寺廻文の背景を探る
明治35年(1902年)、東本願は生命保険事業の破たん等で莫大な借金を抱え込んでいた。当の東本願寺はもとより利害関係ある商人たちも連署して政府要人の井上薫に救済を嘆願した。仕方なく井上はこれを引き受け、資料を提出させ徹底的にその原因を調査した。そして、その原因が東本願寺の放漫財政であることを知ると、井上は片山繁雄を伴い京都の東本願寺に出向いた。京都の停車場に下り立つと、東本願寺が迎えに用意した豪華な馬車を見て、
井上は、『人に財政の整理を頼まんとする者が、何の余裕あってかかる贅沢を、敢えてするとか』と言って、用意した馬車には乗らず、あえて辻馬車に乗って東本願寺に行ったいう。
そして朝の9時より夕の6時まで当事者より財政の情況を聞き、やがて出された豪華な食膳を見るや、ついに癇癪球が破裂し、『これは皆善男善女が寄進したる粒粒辛苦の物ではないか、これを思えば、かかる馳走が喉に通るか!』と罵倒したと伝えられる。後に井上が、取引銀行を鴻池銀行1行に定めて利子の軽減・担保以上の借入を決議して実行した事はこの人物なればこそ出来た事であったといわれている。
本文書、西方寺の廻文は、「本山の今回の事件は未曾有の事件にして・・」また、「各戸40銭(現5千円程か)位の見積もりを以って持参くだされたく・・・」などの記載が見られる。付は明治(宛名名から)38年とあるが、この年の6月、財政紊乱問題で石川舜台前宗務総長は除名の上、僧籍を剥奪されている。本廻章がこの事件と関わりがあるかどうか興味のあるところである。また、菩提寺からの連絡を受けて居谷以外の檀家が誰も集まらなかったということも少なからず気にかかることだ。
(参考文献 Wikipedia・他)
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