稲こきの移り変わり
   
                          田辺雄司
 私たちが子どもの頃(昭和のはじめ)は、稲上げともなると稲を8把ずつを交互に重ね16把を1束(そく)としてツナギで縛りニワ(板張りの作業場)に積み上げて置いたものでした。
 運搬は、人は4束くらい背負い、牛馬には6〜8束くらい荷鞍に上手に縛り付けて運んだものでした。
 幼い私たちも8把ほどずつ背負って運んだものでしたが、稲束が右に傾いたり、左に傾いたりして、首のあたりがチクチクして大変な仕事でした。
 そうして家に運び込んだ稲は、その夜に千歯(せんば)に稲穂を入れて引っ張ってモミをしごくようにして取るのでした。(センバが普及するまではコキ箸という二本の棒に穂を挟んでしごいて籾を取った)千歯による稲こきをした翌日は、落とした籾をメイメェ(庭)いっぱいに敷いたムシロの上に広げて乾燥しました。
 しかし、籾は一つ一つの粒がとれていないでまだ穂状になっているものも多くあるので、少し曲がった棒で叩いてから、通しにかけてモミを選別した。
 日中は稲刈りだから、千歯による稲こきは二晩も三晩もつづいた。この頃は、本当に昼も夜も働きづめであった。
 稲刈りが終わると、その後は天気を見て稲上げの毎日であった。一度に取り込むと家の中に置き場がなくなり、庭先に1束ずつ穂を内側にして丸く積み上げて稲ニオをいくつも作った。11月に入りみぞれが降る頃になって、ようやく庭先の稲ニオがなくなったものでした。
 こうして、板張りニワ取り込んだ稲やニオに積んだ稲を毎晩のように千歯で脱穀したのでした。先にも書きましたが、千歯にかけてからの通しにかけて、叩いてまた通しにかけての選別する仕事は大変な労力がかかりました。
 こうして選別した籾はムシロのタテ(2〜3枚のムシロをつないで円形の入れ物にしてそこに籾をいれる)に入れて座敷においたものでした。乾燥が余り良くないときには晴天の日に庭にムシロを敷いてそこに広げて干したり、天気のない時には一升瓶にお湯を入れて何本も籾の中に入れておくこともありました。そうして乾いた頃にトウドやイイなどで手伝いの人を頼んで土臼(どうす)で籾すりをするのでした。

それから数年して、石黒にも足踏み脱穀機が普及しだした。足踏み脱穀機は千歯の何倍もの早さで脱穀ができる画期的な機械でした。「ガオン、ガオン」という音を立ててV字を逆さにした針金が一面に打ち込まれた太鼓が回る。その上に稲穂を押しつけるとたちまちのうちに脱穀できた。子どもの目にも恐るべき機械に見えたものでありました。

その後十数年すると今度は発動機が現れベルトで新式の脱穀機とつないで動かす、足踏み脱穀機を遙かに超えた機械が普及するようになりました。子どもには、発動機がとても珍しく。石油でどうしてあのような力で出るのか不思議でたまりませんでした。
 石油がランプに火をともし明かりを発するのは普段石油ランプを使っていたからよく分かっていたが、このような回転力だすのがとても信じられなかったのです。家のものに聞くと、大人になれば分かるですまされてしまったものでした。
 当時はベルトのことをシラベと呼んでいました。互い違いにすると回転方向が変えられる事も分かりました。発動機を使うときにはそばによって熱心に見物していたものでした。土臼で何日もかかった籾すりが、その発動機を使うと1日か2日で終わってしまうのでした。
石油発動機(コピー画像)
 しかし、その発動機も時には故障してなかなかエンジンがかからず父もお手あげて買い求めた店まで機械屋を呼びに行ったものでした。機械屋がくるとドンドンドドーンとエンジンがかかり、さすが技師だと感心したものでした。

 居谷でも電気が配電されると、動力は、発動機はモーターに代わりいよいよ便利な時代となりました。