ソ バ 作 り
                             田辺雄司
 山の傾斜や凸凹の多い平地の草や低木を切り倒し、カンノ焼きをした後にソバのたねを蒔いた。
 ソバ蒔きはお盆の直後で、大人たちは2日も3日もかけて種まきをした。カンノ畑のほかにも代ソバ(しろソバ)といって、普通の畑に次々と穴を掘って人糞をまき、そこにソバたねを蒔いて土をかぶせた。
 秋になるとカンノのソバも畑のソバも刈り取り、3把ずつ穂をまとめて縛り、そのまま山で乾燥する。1週間ほどで家に背負ってきて庭にむしろを沢山敷いてソバ落とし棒(ベェ)で1日がかりで叩いておとし、最初は径1pほどのカゴドウシにかけてソバの茎とか大きなゴミをのぞいた。そのあと唐箕(トウミ)で風を起こして、実入りのソバを選んだ。さらにそれを秋日和のよい日にムシロに広げて天日で乾かした。
 そして、みぞれが降る頃になって、大きな石臼でトウド(手伝い人)を頼んで粉にした。粉は1番粉、2番粉、3番粉くらいまでフルイにかけては、再び荒いものを石臼にかけた。1番粉は白いが2番、3番になると皮が混じるので黒っぽくなる。
 ソバ作りには、それらをそれらを混ぜた粉をチャノコ鉢の中に入れてこねたがその中には必ず山芋とヤマゴボウ(オヤマボクチ)の葉を入れた。
 ヤマゴボウの葉は、夏の7月半ばごろに山から取ってきて、よく乾かし、よくもんで葉の裏の白い細かい繊維だけ取り出す。そのために年寄りが囲炉裏にあたりながらザルに入れたヤマゴボウの葉をもみほぐし、堅い繊維を取り除いていたものだった。
 やがて、1ヶ月遅れの正月が来ると28日は餅つき、翌日は餅切り、昼からは、必ずといってよいほど毎年、ソバ作りをしたものだった。
 まず、チャノコ鉢の中か、餅のし板の端の方で子どもの頭ほどの玉にしたものをこねるのだった。こねるには力がいる。水をつけると軟らかくなり味が落ちるといわれ一生懸命にこねたものだった。
 十分にこねたところで父親は餅のノシ板タの上でノシ棒で粉をふりながらのばし広げなから棒に巻いていく。ノシ終わると切りやすい幅に折りたたんで、その上にソロバンを置いてソロバンを動かしながら幅5ミリほどに切った。そば切り包丁は普通の包丁の二倍ほどもある大きさであった。切ったソバは箕の中に新聞紙を広げておいて、そこに順序よく並べて置く。
 当時(昭和25年頃まで)はソバは正月には欠かせない食べ物でした。
 当時のソバは、今日のソバとは違いソバの香りがしていかにもソバらしい味がしたものだ。
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