いすす〔石臼〕
                          田辺雄司
 私たちの小さい頃〔昭和のはじめ〕は、毎晩のように祖母や母はムシロの上に紙を敷いて、その上に石臼を置いて屑米を挽いて翌日に食べるだけの粉を用意するのでした。
 祖母は暗いカンテラの灯の下で挽いた粉を更にフルイにかけて粗い粉はもう一度石臼で挽くのでした。時々、私たちも手伝わされたものでした。
 翌朝は母は姉たち2人の弁当のご飯を炊きながらチャノコ鉢の中で前夜挽いた粉で団子を作り、わら灰の中に入れて焼くのでした。
 また、春秋の彼岸には、「彼岸団子」といって飯米を少しだけ挽いて粉にして団子を作りました。その団子はいつもの屑米の団子と異なり真っ白くて見るからに美味しそうでした。
 しかし、それは、ほんの10個ほどで仏壇や神棚の供えるだけの数でした。彼岸が終わると神棚からおろして来て囲炉裏の灰の中で焼いて食べましたが、とても固いのでお湯の中に入れてゆでて食べたりしたものでした。
 また、石臼は時々、目立てといって特殊な道具で細い溝を掘るのでした。目立は簡単なものではなく、目立ての如何によって、細かい粉になるか粗い粉になるかが決まり、その上、ただ溝を深くすればよいというものではありません。石臼は上の臼は右回りなので溝の立て方は、上の臼は直角に削り、その溝の反対側は斜めに削り、また、下臼はその溝の切り方が逆で左側を直角に削り、反対側を斜めに目立てるのでした。

 鑿〔のみ〕が切れなくなるとヤスリで丁寧に研いで、コンコンと音を立てながら目立てをしていました。