作場おおぬげ思い出
                             柳橋 孝
(前文略)
 真夏の太陽は容赦なく照りつける。自分の行李から着物を出して、山支度をし、草鞋をはいて、火をつければ燃え出しそうな山道を歩く。
 久しぶりの野良姿で、みんなをびっくりさせてやろうと思うと心も足も弾む。それにしても、祖父はどの辺で馬草刈りをしてるのだろうか。上石黒は鯖石川の最上流で、三方の沢の水が合流してから村に入っているので、作場も川を挟んで奥の方に広がっている。すり鉢状の底の部分の耕田は、本家筋が占めているから、分家は自然と千枚田のような山の斜面に追いやられたのだ。この集落は昔から天領の地の延長もあってか、斜面にかんのう(焼き畑)おこして蕎麦を蒔き、次の年は小豆、その後は干し草に使い、あとは捨てていたので、祖父もそのあたりで軟らかい草を探して刈っているのであろうと歩きながら見渡すが、分からなかった。
 祖父は、几帳面な性格で、何をやっても完璧に仕事をこなす人である。また、馬の使い手はこの人にゆだねられている。私は小学校の四年生から馬耕の鼻っ取りをさせられた。幼い私は、沼田の中を腰まで水に浸かりながら、馬の鼻先に付けられた長い棒を操り、よろけるように一足一足あるくのだった。そんな時祖父から
「お前は見込みのいい子だ。そうだ、ゆっくりまわせ、うまい、ほら、まっすぐだぞ」
 と、怒られるより褒められる方が多かったので、このつらい仕事も我慢できた。また祖父は馬を大切に扱い、終わると川に行き馬の体を洗って労をねぎらっていたから、馬も祖父には素直だった。
 焼けつくような山道を、沢の水で草鞋をぬらしながらおおぬげ(地名)へ急ぐ。
 この道は馬が行き合っても通れるゆとりをもっていて、盆近くになると村中総出の道普請が、ずっとつづいている。小岩峠の頂上まで道の両側の草を刈り倒すのだ。都会から訪れるお客さんへの配慮からだと聞いている。帰京するときは私はこの道を選ぶもりだ。
 曲がりくねった平らな道も、ここから谷に沿って三方向に岐れる。蛇岩のふもとのななほうは左に突き当たりの小岩峠の真下はいり山、我が家の田圃はおおぬげと、一里以上の山奥に作場が点在しているが、自給自足出来るような山の斜面が棚田にうまく利用されている。
 太陽は頭上から外れたので、みんな昼寝から起きる時刻だろう。少し登ったところで山小屋が見えた。ここには所帯道具が備えられているから、山での生活の拠点になる場所でもある。
(略)
 陽がとっきん山に沈み、やっと涼しくなった。盆休みに来なくてもよいように、仕事をかたづけ、西瓜をてご(入れもの)に数個ずつ入れて弟たちに背負わせて、帰路につく。下の弟は母のてごの上に載せられ、キャッキャッと、喜んでいる。
 家までまた、四キロの距離。途中、背中の荷物を載せる休ん場が三個所設けられている。
 来るときはひっそりしていた山道も、ぞろぞろと人の群れがつづく。
「おばんなりました」
 と交わされる挨拶。追い越されるたびに背中でゆれる馬草からなつかしい匂いがする。
 家に入るころは、とっぷりとくれて、夕闇につつまれるだろう。

   柳橋孝著「あとには虫の声しげく」から抜粋
  〔著者 柳橋孝 旧姓田辺 上石黒出身 川崎市在住〕