米ダワラ 
 昭和42年〔1967〕までは、供出米は米俵を使用した。
 供出用の米俵には、厳しい規格があり藁の選定からはじまり、縄、タワラの編み方、目方、サンダワラ等、規定どおりに作らねばならなかった。
 詰め込む米は4斗〔約71g〕で風袋を入れると約65.63kgであった。筆者が青年のころは、この米俵を両手で頭上に差し上げられないと一人前でないと先輩に言われた。筆者は顔の前までは持ち上げられたがその腕を伸ばすことがなかなかできなかった。
 供出米の集荷時は、下石黒の現在の公民館が作業所であって、そこに各家から供出米を背負って運んだ。箕を着て俵を立てた状態で二つ折りにした荷縄を回して「ぶっかけ」と呼ぶ背負い方であった。
 下石黒や上石黒は南側斜面一帯に家が多くあるため上り下りの道ばかかりで運搬は容易でなかった。それでも、昭和42年のころにはようやく農協にトラックが整備され車道まで人力で運べば事足りるようになった。それまでは人や馬の背によって東頸城郡の旭村まで運ばなければならなかった。→参考画像

参照→四季の農作業