民具補説
              カイコのアミと枠
 カイコはハキダシ(卵からかえったばかりの毛子)を買ってきて、新聞紙の上で柔らな桑の葉を細かく刻んで食べさせて育てたものでした。あまり小さく毛箒で掃くようにして場所を移動したので「はきだし」と呼ばれたのだと思います。
 それがだんだん大きくなる頃に、家の人は、その後、ある程度成長した頃から使うカイコ用の薄いコモ編みを始めました。俵を編む道具で1日何枚も編むのでした。

 そして、デイ(奥座敷)から座敷半分とニワ(作業場)に高さ2m50pほどの柱を何本も立てて横に桟(さん)木を取り付けて沢山の棚を作りました。その棚にカイコ枠をのせるのです。カイコ枠は薄い板を細くしたもので作ってあり軽くて扱いやすいものでした。
  まだ、カイコが小さいうちはしばらく桑の葉を切り刻んでパラパラとカイコの上にふりまくように落としてやっていました。そのうちカイコが大きくなるにつれて、1枠のカイコを2枠に分けなければならないため、だんだんと枠の数が増えていきます。
 桑の葉もカイコがある程度大きくなると、切り刻まずに葉を一枚一枚をとって与え、さらに成長すると枝ごと与えるのでした。何万匹のカイコがいるのですから葉を食べる音もカサカサと聞こえました。よく見ていると一枚の桑の葉を見る間に食べてしまいます。
 食べる音は邪魔になりませんでしたが、臭いは子どもの頃は嫌で、そのことを親に言うと「嫌なら、お前たちが外に出ておれ」と言われたものでした。当時、カイコは、「ボボサマ」とか「オカイコサマ」と呼ばれたほど大事にされたのです。
 こうして日数が過ぎるとカイコも終齢期に達して体が透き通るようになります。するとマブシと呼ぶ稲ワラを折り曲げたものの上に一匹ずつ箸でつまんで移してやります。この仕事は待ったなしの忙しい作業のため子どもたちも手伝わされました。
  何十枚もの枠の中のマブシに移されたカイコ全部がマユを作り上げるには一週間余りかかりました。
 カイコがマユを作り終えると、今度はマユはずしの作業があります。マブシからマユを一つずつ取り外しゴザの上に山のように積み上げました。また、その時に汚れたマユ、双子のマユなどは別に分けました。
 マブシに移して空いたカイコ枠やアミは順次片づけ始めました。アミはよく天日に干してから土蔵の中に収納しました。
 それから、売るマユは毛羽取り機にかけてマユの周りのゴミや毛を取り除きました。毛羽取り機は右手でハンドルを回して左手でマユを送り込む仕掛けでした。
 こうしてきれいにしたマユはマユ篭に入れて背負い松代町の観音祭りのマユ市に売りに行くのでした。帰りには、祖父が毎年桃をお土産に買ってくるので私たちは楽しみにしていました。その時の桃の味は今でも忘れることが出来ません。

                  文・図 田辺雄司(居谷)