民具補説
       足踏み脱穀機と動力脱穀機
 ヒバシノキ(タニウツギ)の枝で作ったコキバシの後のセンバの時代の後に足踏み脱穀機が普及して、その後十数年後(昭和30年代初め)には動力脱穀機が普及した。
 居谷集落では動力源として発動機を購入して動力脱穀機を使うようになった。(他の集落では電気の配電が大正13年におこなわれていたので電力モータが主に使われた)発動機は大変重く大人二人がかりでようやく運搬することが出来るほどであった。
 
        動力脱穀機
この発動機と動力脱穀機を一直線上に置いて、発動機の回転車軸と発動機の回転軸をシラベ(ベルト)でつないで運転した。
 こき手は稲束を両手で持って穂先を転がすようにして口から挿入し、束を回たり裏返したりして脱穀した。稲ワラ機によって籾と藁くずに選別された。 軽いゴミは吹き飛ばされて選別されるのだった。
 この動力脱穀機は昭和40年代初期まで使用された。その後、稲束を並べて置くと自動式に脱穀する脱穀機に変わった。この自動脱穀機はその後昭和の終わり頃まで使われた。
 平成時代に入ったころから大型コンバインが普及するとともに自動乾燥機が使われるようになると自動脱穀機は姿を消した。
                       田辺雄司(居谷)