2018年度 柏崎市立図書館古文書講座-7/18 口述草案    

 ※ 自己紹介と挨拶

 さて、今日、用意しました文書は、北条村の文書で江戸時代末期、嘉永2年、つまりペリー来航の4年前の頃のものであります。
 内容は、北条村から西国巡拝の旅に出て不幸にも途中で亡くなれた方に関するものであります。
 文書は三通ございまして、初めに「往来手形」、そして次は「死亡を知らせる書簡」、そして、亡くなられた方の「所持品目録」であります。
 それでは、まず、往来手形から読んでいきましょう。往来手形は現在の主に身分証明書の役目、いはば現在のパスポートのものでありますが、表題は「往来一通の事」とあります。皆様も御存じのとおり、往来手形の表題は様々であります。ちょっと書き出して見ましたのでご覧ください。→資料提示-1
 この外にもまだあると思われますが、まあ、考えて見ますと往来手形は身分証明となる本文がしっかりと書かれていれば、表題はそれほど重要なものではないかとも思われます。それはともかく、本文を読んでみましょう。
 「松平越中の守様、御支配所(しはいじょ)」これは当時北条村が支配下にあった桑名藩主、松平定敬(さだあき)の管轄地という意味でしょう。
 次は、「一つ、越後の国刈羽郡北条村 久平(きゅうへい・くへい)儀」、「儀」はよく出てくる字ですが、ここでは「久平について」いう位の意味でしょうか。「儀」は現在でも「私儀、一身上の都合で・・・」などと使われているのではないかと思います。
 同じ意味で人偏のない「義」も使われていますが、こちらは略字ないしは当て字と言ってよいのではないかと思います。
 次は「右の者、此の度心願(念願)に付き西国三十三所(しょ)並びに」とあります。
 西国三十三所については、皆さますでに御存じのとおり京都、滋賀、兵庫、奈良などに点在するお寺であります。これらの寺をめぐるこの観音巡礼には長い歴史があり、奈良時代に始まって今年で、ちょうど1300年目にあたり記念行事も行われると聞いております。
 次は「四国八十八ケ所に巡拝罷り出で申し候 宗旨は」とあります。こちらはご承知の通り、弘法大師の修行跡をたどる巡礼であります。次に「禅宗にて拙寺旦那に相違御御座なく候處」とあります。拙寺は自分の寺をヘリ下っての呼び方で、旦那は檀家という意味ですね。
 次に「国々所々御関所滞りなくお通し」、さて次の「被成可被下候」は難読箇所ですね。この六文字を一つ一つ見て見ましょう。
資料をご覧ください。→資料提示-2
(資料の語句の説明)。つまり、「お通し成され下さるべく候」となるのでだと思います。普通は「可被下候」でよいのではと思います。
 まあ、旅の道中多くの藩を通っていくわけですから、その藩ごと、まあ、このころには「藩」という呼び方は一般に使われなかったかと思われますが、  つまり各国境(くにざかい)、越後でも信濃の国境の関川の関所有名であります。その他越中との境の市振の関所もありました。このような関所を通るためには、この往来手形がないと関所手形を発行してもらうことはできなかったのではないかと思います。また、藩内には番所、いわゆる口留め番所があり、そこを通る時には往来手形が必要であったのだと思います。
 次は、「且つ又 行暮れ候はば一宿の儀 お願い申し上げ候」とあります。道中で旅籠屋のないところで日が暮れてしまったような時に、一般の家に一夜の宿を御願いすることもあったと思いますが、そのような時にもこの往来手形が身分証明書となったわけです。
 つぎに「万一病死致し候」次の字は難読ですが前後の関係からして「節」でしょう。「節は其の所の御作法通り」とは、つまりその土地のしきたり通りに葬ってほしいという意味でしょう。「何卒宜しく御願い申し上げ候 後日のため一札くだんのごとし」と書かれています。
 ところで、ちょっとここで注意したいことは、多くの往来手形に、この部分に書き添えられている「病死のことは此方へ御知らせに及び申さず候」が見当たりません。もしかすると、この死亡通知の手紙が島田宿から送られて来たのは、このせいかもしれませんね。
 次には「嘉永2年酉四月 右同所→(松平越中の守様御支配所を指す)」「村々 御役人衆中」 この「衆中-しゅうちゅう」はよく見かける言葉ですが、複数の人に対する宛書で似た意味のことばでは「御家中」とか「御一統」などがあります。 また、言うまでもなくこの文書は発行所の寺の捺印がありませんので、控えであることが分かります。なお、寺の名前は正しくは「普広寺」で現在も北条にございます。寺名の誤記は島田宿の役人が写した折に間違ったものと思われます。

 さて、次の今日の本文である書簡を読んでみましょう。
 まず、「手紙を以って貴意を得候」とあります。これは、「御手紙を差し上げ貴方のお考えをお伺いします」という意味でしょう。「御手紙得貴意候」とも読みたくなりますが、こう読むと既に手紙の往復が1回あったということになり、死亡の日時と本書簡の書かれた日付元に飛脚にかかる日数を計算してみるに物理的に不可能な事が分かります。
 さて次の「去月」は先月のことですね。というと何月のことでしょうか。⑥頁の手紙を書いた年月日を基に考えてください。そうですね。3月ではなく酉の4月ですね。実はこの安政2年は閏年で13か月、4月(29日間)が2回あったわけであります。
 さらに「二十九日朝五ツ時、当宿地内字」とあります。まず、「朝五ツ時」現在の何時ごろでしょうか。先の講座の第一回目で頂きました時刻表の資料を見てみたいと思います。→資料提示-3
 江戸時代は、不定時法の他に定時法も用いられたといわれます。すでに学習しましたとおり、定時法は一日を24等分した現在と同様のものでありますが、不定時法は違います。
 定時法が一日を24等分して時刻を決めるのに対して、不定時法は日の出から日の入りまでの時間、または、日の入りから日の出までを6等分、つまり一日を12等分したものです。いはぱ一ツは現在の2時間にあたるわけですね。それから、冬至のころと夏至の頃の一時(いっとき)は、大分長さに違いがあります。36分ほどの違いがあったようです。この資料-3の色で塗りつぶしたところを比較して見ていただきたいと思います。
 さて、では朝五ツ時とは現在の時刻ではに何時ごろでしょうか、不定時法で見てみましょう。この書簡の差出日は4月10日とあります。当時は旧暦でしょうから、現在の5月20日過ぎになるのではないでしょうか。とするとこの表では夏至の欄に入りますので、ここから朝5ツは7時少し過ぎくらいをさすのでしょうか。不定時法での時刻の読み方は少し難しく、正直私はよくわかりませんが、当時の人々の生活に割り出された時法であると思います。その意味では合理的な時法であるとも言えるのではないでしょうか。
 次に「当宿」とありますが、これは島田宿のことですね。島田宿を東海道五十三次の浮世絵で見てみましょう。→資料提示-4
大きな川がありますが、これが有名な、箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬの大江川ですね。
 さて、手間取ってしまいしたが先に進みましょう。つぎは「二軒家と申す所 往還並木間」とあります。「二軒家」の地名は、郵便番号調べを見ますと「静岡県島田市金谷二軒家」という地名が現在もあります。
 「往還」は街道のことですね。さらに並木間は並木の間という意味ですが読み方は「なみきま」で良いと思います。ここで、ちょっと並木の役割について少し考えて見ましょう。大抵松や杉等であったと思われますが、大木であったと思われますので、まあ、夏は日陰を作ってくれ、大雨の時には雨宿りの場になったかと思います。それと今一つ雪の多い北國街道(北陸道)などでは、冬期は道しるべにもなったのではないでしょうか。
 また、街道には並木の外に、一里塚や道標-道しるべもありったことは御存じのとおりです。
 次は「行倒れ死人有之」さて次に「候」はあるのでしょうか。(頁-2)
 拡大してみましょう。ご覧ください。この部分に候の文字があるでしょうか。どうも無いようですね。したがって「行倒れ死人これ有り段 非人番」という読みになりますね。さて、この「非人番」ですが、これはいわゆる身分制度の非人とは関連はなく、まあ村内の治安維持や、火の用心などの雑役を仕事とした人のことで、その報酬として米を与えられていたとのことです。
 次の読みはも「八兵衛と申す者届け出候に付き早速」です。「候に付き」は小さな文字ですね。次は「その場所へ罷り越し見届け候處」です。次は「年齢六十歳位の男 中丈」です。「中背」と同じ意味だと思いますが、「ちゅうだけ」でよいのではないでしょうか。
 次は、「顔丸く鼻高く目口耳 常体」続いて「体歯並び惣身痩せ」次は「衰え」ですが、ここの「へ」は衰えの送り仮名でしょう。
 さて、つぎの「草竪縞木綿」と続いての「古袷(あわせ)下に紺木綿 古単物(ひとえもの)を」とありますが、これ以降は我々男共にとっては意味難解な衣服に関する言葉が続出して参ります。まず、「草竪島木綿」とは何のことか。「草縦縞」は草模様の縦縞ということでしょうか。資料提示-6
このような紋様の木綿布のことでょうか。
 また、次の「袷(あわせ)下に」の「袷」は、裏地のある和服のことですね。次に出てきます「単物」は「ひとえもの」と読み裏地のない和服の事で、まあ、「袷」の対照語です。私の子どもの頃は未だ着物が日常着として残っておりましたから少しは「袷」や「ひとえ」という言葉が記憶に残っているのですが、うすぼんやりとしたものです。
 次は、「着し 薄萌黄帯を〆」とあります。「薄」は難読ですね。薄い「萌黄」も難読ですね。帯の色のことを言っている訳ですが、どんな色でしょうか。ちょっと見て見ましょう。
資料提示-7
 次の行は、「上に白木綿襦袢を着」とあります。襦袢という昔よく聞いた言葉ですが、どんなものかと言われると、さてな、という感じですが、和服の下着の一つだそうです。
しかし、ここでは一番上に着ていることになりますね。するとこれは何でしょうか。襦袢を辞典で引いて見ますと「和服用の下着」と「ひとえの短い上着」とありますので、これは巡礼用の上着の半襦袢のことではないでしょうか。現在、北条の古文書の整理が行なわれておりますが、文書と一緒にこのような衣服が出てまいりました。今井先生に着ていただいたものです。資料提示-7-2
 どうも、この上着のことではないかと思います。「巡礼奉る西国三十三所」とあり「戊の申、同行六人」などと書かれています。
 さて次のページに進みましょう。「白木綿半股引同じく脚絆懸け」と読みます。白木綿は染色していない無地の木綿ということでしょう。
 さて半股引ですが、皆さんは「股引」をご存じでしょうか、私は中学生の頃に自分用の股引を与えられて農作業の手伝いのときには着用したものでした。とても優れた野良着であったと思います。軽くてぴったりと身に付き、その上、ボタンもハンドも要らない衣服です。写真をご覧ください。資料提示-8
 ここでは「半股引」とありますので膝下位の長さのものと思われます。
 次に「脚絆」とありますが、これはぐるぐる巻く巻き脚絆ではなく、前からあてがって上下をひもで結び、ふくらはぎの部分はコアゼ止めた脚絆、まあ、この絵のようなものだと思います。 さて、「同じく脚絆を」次の字が難読ですね、皆さんはどうお読みになりましたか。私はこの字が中々読めませんでした。実はこの「はく」「履」という文字ですが、私はこれを二文字に見てしまったのです。「て縦」という様に見えました。このままではいつまでたっても読み取ることが出来ません。このような時に必要なことは発想の転換、視点をを変えることですね。これを一字と見ると自然とこの字が「履」に見えてきますから不思議です。このことは、古文書読解では、とても大切な事と私は思っています。さて、読み方は「履く」で解決しましたが、「脚絆を履く」という表現にいささか引っ掛かります。「付け」とか「あて」とかの方がふさわしい表現に思われますね。WEB上で調べますとブリタニカ百科事典に、「脚絆を履き」という文例が出ていましたので納得しました。
資料提示-9
 次の「甲掛け」は、「早掛け」と読みたくなりますが、甲掛けですね。あまり聞かない言葉ですが、皆さん「手甲(てっこう)脚絆」という言葉はお聞きになったことはあると思います。これは手の甲の日焼けや足の甲の草鞋による擦れを防ぐものだと思います。画像をご覧ください。
資料提示-10
 手甲は現在でも農家の若い女性の方などがされているのを見かけます。
 つぎは「草鞋をはき下帯これ無く」ですね。下帯とは、いわゆるフンドシのことです。ちなみに女性の腰巻も下帯と呼ぶそうです。次は、「右の場に仰向けに成り相果て」ですね。「場」の土偏が手偏のように見えます。旁の方も大分くずしてあります。次に行きましょう。「罷りあり惣身 疵これ無く所持」 惣身の惣は「総」と同じ意味です。「疵」は二つの文字に見えませんか。これを先ほどの「履く」と同様二文字に見てしまうと頓挫してしまいます。先ほどの「履く」と同様一文字として見てみるという視点の転換が必要です。
 次に移ります。「の品 相改め候處別紙の通り」です。候は点のように見えます。次は「往来手形並びに所持の品」次は「有之候につき其の段支配」です。「其の段」はその旨とか、そのようにという意味でしょう。
 次は「御役所へ御訴え申し上げ候處御」です。ここでの御役所は島田宿の役所ですね。また、「御訴え」とありますが、ここでは「連絡とか通知」くらいの意味でしよう。つぎは「御検使なしくだされ巨細御改めの上」です。さてここで「御検使」とありますがこの言葉からは「検視をする人」という意味に思われますがここでの御検使は「検視をすること」の意味ですね。辞書で「検使」を引くと「検視をする人」と共に「検視をすること」という意味もあることが分かります。 巨細は「詳しくとか細かく」という意味ですね。
 次に進みます。「右行倒れ人の儀に付き何ほど」とありに次の行には、「怪しき風聞これ無き哉の段」とあります。ここでの「哉」ですが似た言葉に「歟」があります。文字の形は異なっているのですが、私は時々迷ってしまいます。
資料提示-11
 まあ、こうしてみると似た所もあるようにも見えますね。しっかしりと判読できるようにしておくことが大切と思っております。
さて次の「段」は「庭」に見えませんか。私にははじめ「庭」に見えたため読解に手間取りました。そうですね前の「之」の字の下の部分から筆運びの跡が残り「庭」に見えてしますのです。拡大して見ましょう。(上部を手で隠して)こうしてみますとはっきりと「段」に見えますね。
 次は「御吟味に付き聊かも怪敷風聞」「聊か」は耳偏の崩しが独特で聊か難しくなってしまっています。次は「前の行の最後の字から読み「風聞承り申さず段お答え申し上げ候処」です、次は「右の始末北条村へ申し遣わすべく」ですね。次続けます。「の旨支配御役所より」最後の「より」は平仮名ですね。「仰せ渡され候に付きこの段お達し申し候」です。
 次は「行倒れ人久平親類身寄り」ここは読みやすいですね。つぎは「のものへ御申聞かせ成され若し」ここでは「ものへ」の「も」の崩しが他とは異なりますがまあ前後の関係から読めると思います。
 次の頁に移ります。「死骸引取り度段相願い申すもの」 次は「これ有り候はば村役人中差し添え」で「候はば」の「はば→ハバ」であると思われます。また、「役人中」の「中」は「衆中」と同様「方々、とか皆様」とかという意味でしょう。また、「差し添い」は「付き添い」と言う意味と思います。
 さて、ここでみなさん、ちょっと疑問に思うことはございませんか。そうです。「死骸引取り云々」文面ですね。遺体を生身のまま保存しておいたとは考えにくいようにも思われます。「死骸」は勿論死んだ人の肉体を意味する言葉ですが、既に火葬して遺骨になっているかのようにも想われます。死骸を引取るとしてもこの時代に生身の死骸を運ぶことは想像もできません。したがって、すでに、火葬されているようにも思われますが仮に火葬に付しているとしたら、相当の費用がかかると思われます。私の故郷では昭和の中頃までは村の火葬場が使われてれました。50軒程の各家から藁1束、薪3本を供出して火葬の装置を作るのです。そして夕方点火してから明け方までかけて完全にお骨にするため真夜中に死体の焼け具合を見に行かなければなりません。ちなみに死体が燃えるときに発生する強烈な匂いは村中の家の隅々まで侵入するのです。まあ、ここで火葬は考えられず、仮埋葬と見るのが妥当だと思います。
 いずれにせ旅の途中での病人や死者への江戸時代の対応は、大変丁寧なものであったと思いますね。ネット上で調べて見ますと、旅先での病人や死人に対するこのような対応は五代将軍綱吉の「生類憐みの令」に端を発したもので綱吉の時代はいうに及ばす、次の将軍家宣によっても一部問題のある部分は除いたものの受け継がれたと言われています。
 その後の政権下に在っても次々と受け継がれ徹底のために改定が行なわれ続けて来たようです。ちょっと面白いと思ったのは、ネット上に「綱吉の生類憐みの令」の最も新しいものは平成24年の 「動物の愛護及び管理に関する法律」一部改正であるという記事でした。これはジョークなどでは決して言えない紛れもない事実であると思いますがいかがでしょうか。このことを話しているときりがありませんので止めましょう。。
 次に進みます。「当宿迄御越なさるべく候、先ずは右」ここでは成さるべく「可被成候」の読み方に留意が必要です。
とくに、「候」は「成」字体の一部になってしまったような書き方ですね。次は「貴意を得たく早々斯の如くに御座候 以上」です。
 次に日付は「閏四月十日 島田宿 大久保新右衛門 塚本孫兵衛  北条村 御役人中」とあります。「孫兵衛」は「総兵衛」とも翼たくなりますが、人名で「総兵衛」に出会ったことはないので「孫」でしょう。
 次は、追伸の形式で書かれた文章です。読んでみましょう。
 「尚以って本文の次第久平」、次は「親類身寄りの者当宿へ」つづいて「罷り候とも其の儀に及ばず候とも」ですね。
 次は「この状着き次第両様の内御返書」つまりこの手紙が着き次第、死骸を引き取りに来るか来ないかについて返事をするようにと、伝えているのです。
 続いて「遣わさるべく候 その段当方支配」「御役所へも申し上げ置き候儀」つまり「そのようにこちらの支配役所にも伝えて置くので」という意味です。
 さて「申し上げ置き候儀」次の文字はどう読んだらよいでしょうか。「に付き」でしょうか、「候」でょうか。この点については、いろいろご助言を頂きましたが「候」、「ニ而」、「ニ付」有力のようですが、皆さんはどう思われますか。私は「ニ而」と読みたく思うのですが・・・・・。
 最後の行は「早々御申越し成さるべく候 以上」で、意味は「こちらの支配役所にも伝えて置くので」、「こちらの役所」、つまり島田宿の役所にもその旨伝えるようにと指示しているのです。

 さて、次の文書に移りましょう。まず表題から読んで見ましょう。「久平所持の品」ですね。つぎは一、一、と書かれていますがこうした表記は多く見られますが「一つ書き」と呼び、読み上げるときには「一つ」と読むことは先般の県立図書館の講座で学習しました。
 まず、「一つ 白木綿頭陀袋 一つ」とあります。頭陀袋は皆さん御存じのことと思います。修行僧が托鉢のときに首にかけている袋です。また、亡くなった人の納棺のときに着せる装束の一つにもあります。
 つぎに「内 銭六文、米弐合程」とあります。米は少し読みにくいと思います。弐も大分崩した書体で、こちらをご覧ください。資料提示-12 
これを見ていただくと弐の崩しであることが分かります。米は木賃宿に泊まるために持参したものでしょう。木賃宿は燃料費だけ払えば宿泊できたのでとても安上がりでしたから。
 次は「古黒椀 壱ツ」とあります。黒塗りの漆器椀のことですね。
 次に「一つ 古手拭 一筋」とあり、次は「一つ 破れ桐油 壱枚」とあります。この桐油というものは初めて聴いた言葉でして、いろいろ調べて見ますと、昔の雨具のような役目をした衣類であることが分かりました。なんでも良質な和紙に柿渋を塗ってその上にアブラギリの油を何回も塗って作るものだということです。皆様ご存じの唐笠や提灯に張ってある紙を想像していただければ良いかと思います。ところで此のアブラギリという木は西日本以南に自生するといわれこの辺に葉見られない樹木と言われております。参考までにアブラギリの写真を見てみましょう。資料提示-13
 
ところで桐油という衣服がどんなものか分からなくては仕方ありませんが、実は、私の生家の土蔵の中に昔の旅道具がありました。旅道具と言いましても、三度笠と道中差と柳行李でしたが、それらと一緒に、妙なものがありました。いま 私の頭に残っている記憶をもとに描いて見ますと、およそこのようなものであります。資料提示-14
おそらくこれが桐油であったと思います。すこし汚い感じがしたことを憶えております。子どもにとって三度笠や道中差など、とくに道中差には興味があり、時々持ち出して遊んだものであります。結構重く刃があるようにから思われましたが我が家にあった脇差は本物ではないようです。今もそのわき差しは家にありますが鞘から刃を抜くことは出来ません。
資料提示-15
 ところで、江戸時代に農民は刀を持つことは禁じられていたとばかり思っていた私は、農民の旅人が脇差(道中差し)を持つことができたことを知り驚きました。
 次に「一つ 破れ菅笠 一蓋(いっかい)」ですね。菅笠にはいろいろあります。見てみましょう。、資料提示-16
 三度笠も現在使われている笠も、カサズゲという野草の葉を材料にして作ったものです。この辺、畔屋や矢田あたりの山側に行きますと立派な葉のカサスゲが普通に見られます。
 次には「一つ骨柳(こつこうり)、 壱つ」ですね。骨行李は柳行李のことで、明治のころまで骨行李と呼んでいたようです。長さ1m、幅40㎝、高さ30㎝ほどの大きなものもありましたが、ここでの骨柳は旅用のもので小型のもので2個をヒモで結んで肩にかけて歩くものですね。水戸黄門の格さん助さんの旅姿を思いだしてください。しかし、ここでは「壱ツ」となっていて一対とか一振りとかになっていませんのでどうなのでしょうか。おそらく風呂敷にくるんで持ち運んだのだと思います。
 さて、次にその骨柳の中に入っていたものが書かれております。
まず、「内 浅葱木綿胴巻 壱ツ」とあります。胴巻きは皆さんお分かりになると思います。では浅葱色はどのような色でしょうか。見てみましょう。
資料提示-17 このような色です。
 次に「金 2朱 銭547文」とあります。金2朱とは現在のどれ程の金額に当たるのでしょうか。金銭の換算は難しいといわれていますが、池田弥三郎編「江戸と上方」-1965年を基に2002年に改変したのです。これによれば、嘉永2年の一両は8300円で現在の金額では3万7千円ほど、したがって1分が約7千円で1朱はその4分の1の1500円ほどとなります。したがってこの時、久平さんの持っておられた2朱のお金は3000円ほどになりますね。このことから最初、私は衣服の様子や手持ちのお金の額から、すっかり巡礼の帰路かと思ってしまいました。しかし、往来手形の日付と死体発見の日附けをみて往路であることが分かったのです。 ところで、越後から四国巡礼に参る費用はどれくらいかかったものでしょうか。とてもこれくらいの金額では足りないことは想像できます。このことから、幕末間近のころであり既に当時は両替商による遠方への送金が一般の旅人にも利用されていたのかなと思って居ります。
 次に「浅葱木綿切れ単物(ひとえもの) 壱ツ」とあります。ここでの「切れ」は、切れた處のある単物(ひとえもの)という意味でしょう。さて、つぎは『木綿継の風呂敷 壱ツ」とあります。これは継いだ、つまり裂けた處を繕ったという意味と、私の故郷などでは「つぎ」は「布」という意味もありますので木綿布の風呂敷ではないかなどと思ったりしてしまいます。その後、先輩の肩に方にお聞きしたところ風呂敷に布を継ぎ足して旅行用に適した大きさに改造したものではないかという考えを聞きなるほどと感心しました。
 次の行は「往来手形 壱通」ですね。
 そのつぎの行は「右の外、雑物書類これ無く候」と読みましたが書類の「類」の崩しが納得いかないようにも思われます。皆さんどうでしょうか。
 最後の行は日付ですね。「酉閏四月」と書かれています。
 さて、これで一通り読み下してみましたが、自信のない文字もいくつか有りました。
 皆様から何か、ご質問やお気づきの点などありましたら、お伺いしたいと思います。


   ※ おわりの挨拶
 
                                (2018.7.16 大橋寿一郎)