子どもの頃の中後の正月の思い出
                              中村千恵子
 私が子どもの頃は、冬になると村中の家の働き手の男たちは皆、出稼ぎに出て女と子どもと年寄だけが村に残りました。その上、昭和20年代は、まだ交通の便も悪く、正月に出稼ぎ者は帰省することも出来なかったので淋しい新年でした。
 そんなわけで、冬は、残った女衆と年寄で家を守りました。家の屋根の雪堀りから学校や神社の雪堀りまでもしなければなりませんでした。

 正月の様子は、大晦日は、夕飯は少し早目に祝いの御馳走を食べました。御馳走と言っても、塩鮭の切り身とあとは野菜料理が主でした。暮れにはコンニャクやエゴなどもねって正月の御馳走としました。その他、正月の御馳走は雪道を門出まで行って買って来ました。
 元旦の二年まいりには朝早く神社に出かけました。神社は集落の上の位置にあり、下方にあった私の家から行くのは難儀なことでした。とはいえ、村では、前日に神社への道つけをしておきましたので大雪にならない限りそれほど大変なことでもありませんでした。
 元旦には年寄たちは親類に年始にまわりました。手みあげに持っていく物は手ぬぐい等であったと思います。
 1月15日の小正月には色々な行事がありました。朝早く鳥追いをしました。庭先に出て「ほあー、ほあー」と大声をあげて子ども達が鳥追いをしました。また、藁ツトッコの中に小豆の煮たものを入れて柿の木責めもしました。

 それから、横ヅツに縄をつけて家の周りを引きまわして家の所々に豆ガラを指して回ったことも憶えています。豆ガラ(豆を落とした後、空の鞘のついた茎)を差すのはどういうまじないであったかは今も知りません。
 また、どんど焼きも行われました。場所は学校の近くだったと思います。現在の道で板畑から中後集落跡に出て男山を前面にして左側になるでしょうか。はっきりととは憶えていません。
 また、花木かざりもしました。山から朱ウルシを塗ったように赤い団子の木(ミズキ)の枝振りのよい木を切って来てそれに、何本かの箸を使って作った花形の餅などをつり下げてつくりました。そして作った花飾りは大黒柱などに飾ったものでした。
 正月の遊びといえば、大人は宝引きで子ども達は百人一首でした。友達の家を回ってやりましたが、年寄たちの宝引きの宿とかち合わないように子どもなりに遊びに行く家を選んだものでした。
 また、百人一首は、当時、分校(門出小学校中後分校)の先生をしておられた「いのじ(屋号?)の先生」と私たちが呼んでいた方が読み手をしてくださいました。そんな訳で先生も子ども達の遊びに付き合って一緒に家々をまわって読み手をしてくださったのでした。その先生は村の方でしたが、閉村後も長く中後にたった一軒で住まわれていたと聞いています。高齢になられてからの一人暮らしを心配した人々が強く勧めて高尾あたりに移転されたとの事を聞きました。故郷を離れられなかった先生の心境を想うと気の毒でならなかったことを憶えています。
 今でも、友達大勢で先生に読んでもらった百人一首の楽しかったことを時々思い出しています。

 その私たちの故郷、中後村も昭和40年代に国の過疎対策の法律によって20軒未満の集落であったため集団離村をさせられ閉村となりました。車道が板畑とつながり道路が整備された直ぐ後の出来事でした。
 他の村には、車道がきれたことを幸いに中後の人たちは皆が故郷をすてて町場に出たなどと悪くいう人もいたようです。
 今になっては、遠い昔のことであり、何もかも夢のようであります。私の記憶違いもあるかもしれません。
   上田尻在住  2015.9.)