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          18軒の居谷集落

 大昔、松之山に村山氏、田辺氏と名乗る大旦那様がお互いに勢力争いをしていたという。
 ある日、一人の老婆が田辺氏の家の門を叩き、「今夜一晩泊めていただけないか」と頼んだという。ところが、田辺家の大旦那は家の奥のほうから、「そんげな、こ汚い婆なんぞ泊めるところはない」と怒鳴りつけた。
 老婆は仕方なく、もう一軒の旦那様の村山家に行って泊めてくれと頼んだ。すると、村山家の主人は「こんなところでよかったら泊まってください。すぐ上がって湯につかって疲れを癒されるとよいでしょう」といって、夕飯にはご馳走をして歓待したという。

 老婆は、翌朝深く頭を下げて礼を述べ、帰り際に「お宅はますます繁盛することでしょう。それから、もう一軒の旦那様はだんだん衰えるでしょう」と言い残して姿を消した。

 
 春の居谷集落(2006)

 その後、まもなく老婆の予言どおり、田辺家は衰え始め、遂に松之山に住むことができなくなり、もっと山奥に移り住むために下僕と女中を連れて居谷までやって来たが、疲れ果ててしまい、この地で住むことにしたのだという。
 田辺氏は、哀れな老婆の頼みを聞かずむげに追い返した、かつてのわが身を振り返り、本当の人間性を取り戻して一生懸命に山を切り開き田畑を開いて働いたという。
 そして、その下僕と女中を一緒にして最初の家持〔分家〕を出して、その夫婦と力を合わせて働きに働いた。やがて、更にもう一軒の分家を出した。それが現在の親家であると伝えられる。
 それから、数十年後、最初の分家が生活も楽になったので、分家を出したいと旦那様に相談すると「なじょうも、出せばよい、但し二軒で止めておけ」と言われ二軒の家持を出したと言う。その家持の一軒が相沢集落(現在の松代町〕出身の作男で小野島という姓であった。
 その後、田畑の開墾をすすめ生活が楽になるにつれて次々と家持を出す家が増えた。そこで、集落の重立が集まって余り多く家持を出すと限られた田畑では生活が貧しくなるばかりだから、20軒以下に抑えるということで話はまとまった。
 その後、居谷集落は何百年もその決まりを守って18軒の集落を保って来たという。


     
                  文 田辺雄司