軍馬の徴用
                       柳 橋  孝
 (前文略)
 雪の中を本家の馬に収集令状がきて駆り出されたときのことを思い出す。祖父が馬のわらじを夜なべに作り、それを穿かせて村境まで曳いていった。
 馬は家から出るのを拒み、動こうとしない。見送りの者たちも泣きながら身体にさわって別れを惜しむ。それに応えてか、たてがみを振り振り大粒の涙を出して、人間のように後ろを振り返って去って行った。ばばさまもおっかさも泣き崩れたあの日、馬も輜重(しちょう−運送車)の役目でひっぱられたのだった。(後文略)
    柳橋孝著「あとには虫の声しげく」から抜粋
       (著者 上石黒出身 川崎市在住)





              軍馬徴用について
 昭和の初め、中国戦線の拡大にともない馬の徴用は、農家で飼われていた農耕馬が主体となった。石黒からも数頭の馬が徴用されたと聞く。
 当時、農耕馬は家族の一員として大切に飼われていたので、馬の徴用令が来ると、家族は、父や兄弟に招集令状が来たと同じような気持ちになったものであるという。
 太平洋戦争に、全国の農家から徴用された馬の数は300万頭をはるかに超えるといわれている。徴用された馬は、貨車や輸送船の船底に多数押し込められて運ばれたのであろう。
 斎藤茂吉編の『支那事変恋歌集」に軍馬を歌った2首がある。その一首
「船底の 馬房に馬の 足踏む音 鉄板1枚 へだててきこゆ」からは、水や餌をもとめて前足で船底を掻く馬の様子がしのばれる。
 軍馬は、戦場では「活兵器」つまり生きた武器と呼ばれ大切に扱われたといわれるが、悪路を車をひかされ、鞍には百キロを超える荷をつけて運んだ。そして、ある馬は銃弾に倒れ、ある馬は怪我や病気で死んだ。またある馬は輸送中に海の藻屑と化し、ある馬は餌のない南島に置き去りにされた。昭和20年8月の敗戦の後、帰還した馬は一頭だにいなかったのである。
「足をくじき 山に棄てられし 日本軍馬 兵を懐かしみ 歩み寄り来る」、この短歌も、棄てられて人を恋しがって寄ってくる馬の哀れさが感じられ胸を打つ。

 童話作家の茶木滋さん(メダカの学校の作詞者)の本に「馬」という題の詩がある。
「馬はだまって 戦に行った 馬はだまって 大砲を引いた 馬はたおれた お国のために それでも起きようと 足うごかした・・・・・馬は夢見た 田舎のことを 田んぼたがやす 夢見て死んだ」 

参考HP 猪俣静彌著 「徴用軍馬の足踏む音」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~narara/index.html
(文責 大橋寿一郎)