高柳村との合併

石黒村と高柳村は相接していて昔から交通、経済、習俗等で密接な関係を保ってきた。
1953年〔昭和28〕に交付された町村合併促進法は全国的に町村合併の大きな潮流となった。もともと高柳村は財政強化のために石黒村や南鯖石との合併を推進していた。特に、南鯖石村の大沢との合併はかなり具体化するかに見えたが結局、大沢は柏崎市と合併し南鯖石村との合併は実現しなかった。
一方石黒村も前年、東頸城郡旭村から合併の交渉を受け、一部の集落はそれに応ずる動きもあったが実現しなかった。その他、以前から、鵜川、野田、石黒の3か村合併の構想もあったがいずれも交通事情などから実現することはなかった。
このような中で、将来を見通した石黒村は、結局、高柳村との合併に同意し、当時の村長田辺伊久と議会議長田辺謙助の連名にて「刈羽郡石黒村を廃し、その区域を刈羽郡高柳村編入を受け入れるものとする」という議決書を残している。
石黒村の上記の議決書をうけて、3月1日に両村協議会が開かれ郡事務局長が出席して、合併に対する優先援助や県の方針を説明している。
これを受けて高柳村議会は、3月13日に村長石塚伊三右衛門、議会議長小嶋静知の連名で「刈羽郡石黒村を廃しするにともない、その区域を刈羽郡高柳村に編入するものとする」と議決書を作成し、ここに初めて両村の合意が図られた。
そして、村の廃地分合の申請書を県に提出しているがその中に「合併の理由」として次のような文が見られる。
「高柳村は刈羽郡の最南端に位する山また山の僻村であるが、住民は極めて純朴で、明治34年8ケ村を合併して県下屈指の大村となり、その後幾星霜、堅実の歩みを続けてきたが、高地極めて狭隘で、部落は16ケ所に点在し役場所在地を距てること3里に及ぶ部落を有し、冬季6ケ月、平年丈余の積雪のため・・〔略〕石黒村は陸の孤島と言われる高柳町より更に不便の土地であったが、村民の努力により一昨年より高柳村より中越バスの運行が開始した。〔以下略〕
さらに、「石黒村の沿革」については、「石黒村往古の所管は詳らかではない。また、創始年代の文献の徴すべきものもないので、これを知る由なしと言えども徳川治世にあっては天領に属していたことがあり、また、長く桑名越中守の治世にあった。明治元年柏崎県の所轄となり、明治6年6月柏崎県廃止とともに新潟県の所轄となった。その後明治22年4月町村制実施にともない板畑,居谷の2部落を分合して石黒村と称し今日に至っている。昭和27年9月5日開道を見、翌28年6月5日バス運行を見るに至った」とある。

               
 参考資料「高柳町史