一昨日(2017.9.21)、小村峠に野鳥研究者のH氏とタカの渡りの観察に出かけた。頂上に着いたのは9時半ごろであろうか。
あいにく、頂上に到着したころ草が少し揺れるほどの風が吹きはじめた。上空をみると、白い雲がかなりの速さで東方へ向けて動いている。タカの渡りの前方からの風であったので今日の渡りは見られないと想ったが果たしてその通りとなってしまった。
昼食後に私は植物の写真を撮るために近くの林に入った。そこは廃村から多年を経て、すでに家屋の跡も確認できないほど草木に覆われていた。
私が所蔵している高橋義宗著「鵜川の話」によれば「当時は、縦には頸城と柏崎を結ぶ峰道、横には北陸道の柿崎と刈羽郡の鯖石街道を結ぶ十字路の地点であった」と記載されている。かつては、往来の人々をあらためる「番屋」と呼ばれる建物もあったことを伝えている。
初めて訪れた筆者には、昭和の頃の集落の様子さえも想像もできないが、頂上の平らな薄暗い林の中に足を踏み入れると、人の息遣いのようなものを感じられた。これは、原野に還った村落や山道などを歩く度に筆者が感じる一種の霊感(?)のようなものと思っている。
しばらく歩いて林を通り抜け道に出ると前方の小高い所に太平洋戦争の忠魂碑が目についた。表面をよく見ると掘られた文字列のバランスが良くないことに気が付いた。(上写真)近づいてよく見ると二人の戦死者の名前が刻まれている。どうやら向かって右側の名前は後から刻んだものらしい。
石碑の裏側を見ると「昭和二十年三月十三日 舞鶴海軍病院に於いて病没」とある、その左側には「昭和十六年四月一日 支那湖北省宣昌野戦病院に於いて戦病死 享年二十」とあり最後に石碑を建てた年月日と名前がある。年月日は昭和十九年六月とあることからも後から掘りなおしたものであることが分かる。
おそらく戦死者二人は兄弟であろう。とすると弟の方は後4か月で終戦という時の戦死であった。昭和20年4月といえば、筆者が8歳のころであるが、戦局にすでに日本の敗北が見えてきたころであった。子ども二人の命を奪われた親御さんの気持ちはいかばかりのものであったか。しばらく石碑から目が離れなかった。
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