前ページへ      原文  P.5    次ページへ     読み下し文
   
於いて出家し法名を了念と号す。亨禄三年四
 月十日往生す。三世明祐
改め一宇を建立し本尊寺号願ければ、證如上
 人より五百代本尊
天文十五年御染筆ありしにこの時、西方寺と
 賜う。その後信州乱撃に依り
四代明道、この宝物を供奉(ぐぶ)し、越後
 国頸城郡下美守(しもひだもり)郷吉川
庄田中という所に来たり。しばらく逗留し
 けるに近郷隣端かの徳
風になびき帰依大方ならず、人々一宇を建
 て住せしめ
年々教化を□けり。今にかの地に西方寺屋
 敷とて有り。現にこの辺、門徒数多あるは
 このときの因縁なり。然るに
 意訳文
             
おいて出家し法名を了念と号した。そして亨
禄(1530)四月十日往生なされた。
三世明祐、改めて一宇を建立し、本尊寺号を
願ったところ、證如上人より五百代本尊、天
文十五年(1546)御染筆をいただいたとある。
この時、「西方寺」の寺号を賜った。その後
川中島の戦乱を逃れて四代明道、この宝物を
供奉し越後国頸城郡下美守(しもひだもり)
郷吉川庄田中という処に移転した。しばらく
は逗留したところ、近郷隣端この徳風になび
き帰依する者多く、人々一宇を建てて住んで
頂き年々教化を行った。
現在、かの地に「西方寺屋敷」と呼ばれる場
所がある。現にこの辺に門徒が数多あるのは
この時の因縁である。さて