供出米の俵編みのこと
                            田辺雄司
 供出米の俵は、もともと重量制限等いろいろな規定があったのですが、昭和30年代に編み方の変更がありました。
 それまで、コモヅツに自分でなった細い縄(こでなわ)で編んだのでしたが、そのときの変更によって縄を農協から購入することになったのみか編み機も新しいものを買わせられたのでした。
 それまで、2本の縄で編んでいたのでしたが3本の縄で編むことになり、それまでのコモヅツに代わってスプリングに挟んで止めておく方式の編み機となりました。
 編むときに藁の本数を一定にしないと制限重量を超えてしまいます。また俵の両端に取り付けるサンダワラの取り付けも細縄を4ヶ所編み縄と縄との間が30pで、編み目の数を18〜19にしないとなりませんでした。
 このようなことから、俵編みにはみんなが神経を使ったものでした。
 俵編みは冬仕事で、朝早く玄関の雪堀と道踏みをしてから朝飯を食べ、それから二階で一日中俵編みをしたものでしたが一日に10〜13枚が限界でした。指先は痛くなりましたが、指先から湯気が立つような気がして火の気のないところでも寒さは感じられませんでした。
 男衆が出稼ぎに行った家では、女衆が俵を編んでいましたが、このように規定が変わったため大変でした。俵ばかりではなく俵を縛る縄も機械でなうのですが、これにも30p間にクリ(縄のねじれ)18〜19ないと合格とはならないのです。
 こんなわけで、よく他の家に「これでよいかどうか見てくんなさい」「どのようにしたらいいか」などと呼ばれて出向いたものでした。
 こうして各家で作った俵を、春になると検査員がやってきて、重量、寸法などを念入りに調べ規定に合っていると合格の判をバンバンと押していくのでした。俵だけではなくサンダワラや縄まで調べなければならないので検査員も仕事とはいえ大変でした。
 その後、俵からカマスに代わりましたが、カマスは織る機械からしてどこの家にもあるというものではない上、藁は叩いて軟らかくしないと織れないなどの理由で何年も続かずに麻袋に変更されました。 しかし、麻袋も運搬等に問題点があり取りやめとなり現在の紙袋に変わったのでした。紙袋となると随分と楽になりました。俵作りの必要がなくなったばかりではなく30s入りの袋となったので運搬も大変楽になりました。