炭鉱での仕事

                  大 橋 富 治
 私は、毎年11月の半ばから翌年の4月の中旬ごろまで、出稼ぎをしていました。
 昭和28年だったと思いますが、炭鉱の大々的なストが行われた後、石炭増産のために出稼ぎの求人がありました。当時としては賃金も食事も他よりもよいということで私も希望して行きました。
 最初に行った所は九州でしたが1年で閉山し、その次に行った山口県の炭坑は3年で閉山となりました。その頃は、石炭から重油への燃料転換が行われたころで次々と炭坑が閉山していたのでした。
 次に行ったところは茨城県の炭鉱でした。ここには、閉山になるまで7年間続けて、冬季出稼ぎに行きました。
 炭鉱の仕事は採炭〔さいたん〕と堀進〔くっしん〕がありますが、私は主に堀進の仕事をしました。掘進とは、採炭のための準備の仕事です。一定の場所を□の字形〔正確には台形〕に堀って坑道を作る作業です。坑道は、高さ、幅ともに2m余りでした。坑道は、採炭の機械が十分には入れる幅と高さが必要でした。
 仕事は一日3交代で3人一組でやりました。3交替の内容は、朝〜夕方、夕方〜夜半、夜半〜朝に分かれていて皆が一週間交替で行うのでした。
 仕事は、先山〔さきやま〕と呼ばれる熟練の人が後山〔あとやま〕と呼ばれる2人を使って行います。
 まず現場で最初にやる仕事はハッパ〔発破〕の穴をあけて、そこに火薬を詰めて破裂させ岩をくずす仕事です。発破は数回に分けて5〜8発くらいかけました。四方八方から圧力のかかった地下の岩盤は1発や2発のハッパではなかなか崩れないのです。
 こうして数発のハッパによって崩れた岩は後山の2人がトロッコを使って運び出します。先山は熟練の技で岩を積みやすいように砕いてくれます。時には、崩れ落ちた大きな岩に再びハッパをかけることもあります。
 岩を運び出した後は、坑内の周囲の岩が崩落しないように危険防止の枠を組みます。この時は先山は枠木を刻み、後山は周りを囲う板や木を用意し、3人で協力して仕事を進めます。このように枠組みをしても、危険がつきものの仕事で、しばしばひやりとすることがありました。こうして交替時間までに、その日に予定した坑道を完成させました。
 また、通風設備は一応整っているのですが、坑道は奥に進むほど通風が悪く暑くなります。そのためシャツは着ないで裸で仕事をしたものでした。また、汗でスコップの柄が滑って力が入らないので粉炭を手につけて手が滑らないように工夫したものです。
 飲み水は一升瓶に入れて持って入るのですが交替までに全部飲んでしまいました。
 やがて、交替の時間になると寮に帰って風呂に入り一日の汚れを落してその日の一日を終わるのでした。寮は近くにあり一部屋7〜8人ほどでした。
 
 今、振り返ってみるに、炭鉱の仕事には他の仕事にない仲間との深いつながりや団結があったように思います。数百メートルの地底での死と隣り合わせでする仕事では、少しの油断や失敗も許されないものでした。今にして思うと坑内での仕事仲間は兄弟にも勝る信頼感でつながれていたと、つくづく思います。