新田づくりと田の畔
                           田辺雄司
 現代の田作り(新田開発)は、重機を使って短時間でできあがりますが、昔の田作りはなかなか大変なものでした。
 まず、畔盛りをして、6尺(約180p)のハメ板に直角に線引きして、糸におもりをつけ畔の上に何本も小さな杭をうち、杭と杭との上に板を乗せて糸が垂直に垂れ下がっているか、を見て畔のレベルを測りました。
 畔はかなり大きく土を盛ってその上にムシロを掛けて重さ40キロほどの大きな畔しめキネ(板状→下図)で外側から上、内側を力いっぱいに叩いてしめるのでした。
参照→民具アゼシメ→クリック

 畔の内側の下は幅30pほどの溝を掘って、底面を畔タタキキネ(丸形)でよく叩いて締めるのでした。
 新田の田かき始めは、トウドウ(手伝い)7、8人を頼んで行いました。
 まず、田の中を一鍬づつ打っておいて水をじょじょに流し込み土に水をしみこませます。これを「水合わせ」と呼びました。それから「土俵」と呼ぶ、カマスに土を半分くらい入れネジ木3、4本でしっかりとしばったものに荷縄を2本つけて数人で引っ張りました。(※ネジ木で縛るとカマスの下面と堅い土との摩擦を和らげカマス自体もすり切れない利点があった)
 そのうちの1人はカマスの土俵が浮き上がらないように下に押しつける役目でした。この人がうっかり押す手をゆるめると土俵が浮いてしまい前の引き手が手応えが急になくなり転倒することもあったものでした。
 そして、今度は入れていた水を止めて、「階段打ち」と呼んでいましたが、堅い底面の土を鍬で耕してそこに十分泥が入るようにする作業を一日中繰り返します。そして、田の土が十分に泥状になったところで十分に水を張ると新田が完成して、翌日は田植えが出来るようになるのでした。しかし、新田は2、3年はやはり水持ちが良くないのが普通でした。

 畔は、毎年春には畔の内側を鍬で削り、円いキネで叩いてひび割れやネズミの穴などでゆるんだ畔の土を締めました。そして、田の中の土の付いた稲株を一株ずつ鍬で畔に稲株が内側にいくようにして押し当てて全体をなめらかに塗り上げました。これが畔塗り作業で、これを怠ると水持ちが悪く渇水期には水不足をまねくのです。(その後一週間ほど過ぎてから、丸い棒で畔の上に、やく30pおきに穴を開けて大豆を3粒ずつ入れました。鳩に食べられないようにその上に泥やクンタンヤキのモミガラを少しずつ入れる家もありました。)
 しかし、石黒では30年ほど前から畔を塗る農家もだんだん少なくなりました。その理由は、U字溝やホースの普及による用水路の完備とエンジンポンプの普及、そして特に用水条件の悪い田の放棄などもあります。その他、畔に巣くうケラなどの生き物の減少も理由の1つとして考えられるのではないかと思います。
 現在でも、雪に押されて低くなった部分の畔は修理しなければなりません。そうしないと大雨などで畔から水があふれ出ると土砂崩れを招くからです。
 そんなわけで、今でも、特に雨の日の田めぐりが大切な事は昔と変わりありません。