稲の予防の思い出
                         田辺雄司
 私たちが子供の頃〔昭和の初め〕には、稲の病気を直したり予防したのするには、三共ボルト粉剤が使われていました。薬剤を袋からだして肥し桶の中で水に溶かして背負い式の噴霧器に入れて加圧しながら霧状にして稲にかけるのでした。
 値段が高かったためか、使う人は当時は少なかったのですが、稲の病気がひどくなったときには私の家に来て薬の効能について話を聞いて噴霧器を借りていく人がいました。
 終戦後になりますと、人や家畜等の害虫の殺虫剤として粉末のDDTが、そして田の除草剤には2,4-Dが使われるようになりました。2,4-Dは夏の暑いの頃の一番暑い時間帯に撒くことになるのでしたが加圧せずに落下式で3条くらいのノズルで撒いていました。しかし、田には水がたくさん溜めてあったので効果は田によって異なりました。
 一方稲の害虫の駆除にはBHCという農薬を動力散布機〔ミスト機〕と呼んで粉剤を撒いたり水和剤を撒いたり両用〔容器を取替え〕できたのでした。
葉イモチと穂首イモチ

 また、稲の病気で最も恐れられていたイモチ病には「セレサン石灰」という薬剤を撒きましたが当時の散布機は重く10kg以上はあるように思われました。散布機の中に3kg詰めの薬剤を3袋ほど入れて朝早くから深い田に入り幅4〜5mで散布するのでした。ときには、朝早く露のはれないうちに撒くとひざ頭が火傷のような症状となりました。これは、薬品の成分である石灰による作用と思われますが、モモヒキの色もすっかりあせて肌色となり布も弱くなるのでした。
 また、この農薬を散布するときには、田のくろにある桑の木が植えてあるところは、前日に桑を切って横井戸のなかに格納しておきました。カイコに食わせる桑にはこの農薬の匂いがつくだけでも有害という指導があったからでした。
 また、同じイモチ病でも葉イモチ病は、まだ稲の丈が低いので稲をまたいで歩けるのですが穂首イモチの場合は丈が高いので2mほどのホースを左右に回すのが大変でした。とくに風の中での散布は撒く人の全身が真っ白になることもありました。穂首イモチは本当に恐ろしい病気で春から丹精して稲の穂が白くなつて一粒の米も収穫できなくなるのです。
 また、せっかく立派な穂が出ても穂の中が白乳状のときにウンカ〔ススと呼んだ〕が穂にたかり中の汁を吸ってしまうので穂が実らないのでした。
セジロウンカ
ウンカは、中国から西風に乗って飛んで来るといわれました。その頃になると夜に電灯の下に集まってきます。すると私たちはそろそろウンカのたかる頃だと警戒したものです。翌日、田の風通しのよくない場所に行ってみると案の定、ウンカがたかり始めていたものです。このウンカも、BHCという農薬が普及すると効果てきめんで驚くほどの効果があったものでしたが、後に残留性の薬害があることがわかり使用が禁止されました。
 薬害といえば、大分以前のことですが、私は草丈の高い「千秋楽という品種の稲を作った時のことです。この稲の出穂がそろった頃、少し風のある日の夕方に穂首イモチの予防農薬の散布をしました。 そのときに散布機を背負って散布口を穂先に向けて撒いていたのでしたが、風のために農薬が顔にかかってしまうことがありました。それで、家に帰ってからよく洗眼してから目薬をつけて寝たのでしたが、夜中に突然右目が痛くなり、まるで目の中に砂利でも入ったよう痛みました。私はこれは困ったことになるぞ目が見えなくなってしまうのではないかと心配になりました。結局痛みのため朝まで眠ることができませんでした。
 朝、おきて鏡で見るとまるで血が流れ出るように充血していました。早速、柏崎の眼科病院に行って医師に農薬の話をしましたところ、「右目は駄目かもしれない。とにかく、やれることはやってみるから通院するように」といわれました。そのときはまったく右目は見えない状態でした。稲刈りの最中なので眼帯をかけて悪路を耕運機で稲の運搬など、片目しか見えないのでまことに不便でした。しかし、ありがたいことに10日ほどで5本の指がぼんやりと見えるようになりその後1カ月ほど通院して元の視力に戻りました。
 あれから40年がすぎましたが、先般白内障の手術をしたときに右眼は奥底の方がやられているので視力はこれ以上改善しないと言われましたが、今でも、車の運転もでき、日常生活に不便は感じないのでこれ以上の我がままは言うまいと思いながらすごしています。