出稼ぎと留守を守る女衆
                           田辺雄司
 昭和の前半の出稼ぎは、その後の出稼ぎに比べて特に大変であった。出稼ぎの時期になると、雪降り前の外仕事をきれいに片づけて、親類や重立ちの家に挨拶に行き留守中のことを頼んで出かけた。 
 利用する交通機関は、大島村のバス停まで歩くか岡野町まで歩くかの二通りであった。小折に衣類などを詰めて背中に背負って歩いて行ったものだった。中には一年中の出稼ぎの人もいたが、ほとんどは春の節句前(3月末)までの出稼ぎであった。
 後に残された妻や年寄りは、毎日外に出て雪との戦いであった。大雪の年には、隣の家の除雪した雪が自分の家の脇まで転げ落ちてきたなどでトラブルとなり気まずい思いをすることもあった。
 除雪は自分の家ばかりではなく村の分校や消防小屋など公共の建物もあり大変であった。また、山村とはいえ、傾斜地に家が建て込んだ集落であったため雪のやり場がなくなると箱モッコで引き出して雪を捨てる家もあった。
 当時は、役場や農協、郵便局にいくには、学校が休みのときなどは、道がつかず郵便さんが来ることが頼りだった。「郵便さんが来たから、郵便局へ小包を出しに行く、農協に買い物に行く」などと言ったものだ。それでも石黒の郵便局までの距離は4qはあり、女衆は数人で各自がカンジキをはいて昼飯用の粉モチやアンボウを懐に入れて出かけたもだった。
 その後、石黒村全体で話し合い、隣の集落までの道は各集落で道踏みをしてつけることになったので大変楽になった。
 しかし、その反面、隣の集落までの道踏みが義務化されるとこれもまた大変なことで、豪雪の年など女衆4人と男1人で朝8時に出発し隣の部落についたのが午後の3時という事もあった。1m以上の新雪の中はカンジキをつけても腰までうまり上り坂の道など100m進むのに1時間以上かかった。先頭のひとはコスキで前の雪をかきながら進まなければならなかったからだ。
 帰りは再び新雪が60pも積もり、これまた大変で村に帰るのは暗くなる頃だった。疲れがひどく皆夢遊病者のような足取りだった。そういうときには村に残った人が、食べ物やポットに入れた暖かいお茶を持って途中まで迎えにでたものだ。
 また、冬の間に急病人がでると医師はなかなか来てくれないので、戸板(雨戸)に棒を2本縛り付けて、布団を敷いて病人を寝かせて4人くらいで担いで10数キロの冬道を運んだ。屈強の男衆が居ない冬季は雪道で朝早く出ても夕方にしか着かないので、何よりそのような病人が出ることが一番の心配であった。
それでも、村の女衆は亭主が戦争にとられたことを思えばこんな苦労は屁のカッパだと笑い飛ばして豪雪の冬を乗り切ったものだ。
 そして、待ちに待った春が来て1ヶ月遅れの桃の節句の頃になると出稼ぎ者もほとんど帰ってきて村は再びにぎやかになった。
 昔は、出稼ぎ者のお土産はたいがいザラメ糖と絵の描いてある江戸紙(新聞紙1ページ大の厚紙に沢山の江戸の風物を描いたもの)だった。また、ふかした酒米をよく練って固めた「かたもち」なるものを持って来る者もいたが、子どもにとって一番良いお土産はザラメ糖や双六だった。
 出稼ぎ者の帰ってきた春の村は、明るく活気にあふれていたが、、戦争中のことで息子や亭主に動員のはがきが来なければよいがと、家中が心配している時代でもあった。